異端審問官は新米子羊の夢を見るか?
隠し通路の奥は真っ暗な地下道へと続いていた。梯子を下りると石造りの通路が広がっており、噂で聞いた礼拝堂はこの奥にあるのだろうと確信する。
「クリックくん、ひとつ頼まれてくれますか」
振り返ると、クリックは真剣な面持ちでテメノスからの指示を待っていた。
「先ほど見た怪しげな男が逃げる前に、街に常駐している騎士団へここの場所を報告してください」
「それではテメノスさんをここに一人で残すことになってしまいます!あなたをこんな危険な場所に置いていくなんて……ッ」
「私はここで奴が逃げないか見張っているだけです。君が早く戻って来れば何も起こらない。ね、だからお願いできますか?」
クリックが安心できるよう、テメノスはふわりと微笑む。クリックは大きく息を吐いたのちに「分かりました」と呟き、テメノスの両手を包むように握った。
「約束してください。危ないことはしないと」
テメノスが頷けば、クリックは苦笑してこの場を去った。さてどうしたものかとテメノスは通路の奥を見やる。
すると暗闇から人影が近づいてきた。緊張が走り、フードを被り直す。
「……誰だ?」
陰から現れた男の姿は、地上でテメノスが見た人影と同じだった。こちらと同じように深くフードを被り、顔がよく見えない。
おそらく、異端。そう踏んで、テメノスは口を開いた。
「仲間と一緒にここを目指したのですが、聖堂機関に捕まってしまって。私ひとりで逃げてきました」
「仲間?……そうか、貴様は我らと同じか」
男は薄気味悪く笑うと、こちらに一歩近づいた。身構える前にカンテラを差し出される。どうやら聖火教会の人間だとは疑われていないらしい。
「この場所はどうやって知った?」
「捕まった仲間が教えてくれました。ここに来れば、我が神のご慈悲を頂けると」
「なるほどな……」
男はこちらに背を向けると「着いて来い」と言い、奥へと向かった。警戒心の薄い男で良かったと安堵しながら、テメノスもその後に続く。
奥にはテメノスの予想通り廃墟となっている礼拝堂があった。まさかこんな地下に存在していたとは誰も思うまい。隠れ信徒が使っていた場所なのだろうが、今まで見つからなかった理由も分かる。
壁の燭台に火を灯しながら、男は礼拝堂奥にある棚を漁り始めた。何をしているのかと注意深く見ていると、男は大ぶりな箱を持ってこちらに戻ってきた。
「これは“神が与えた解放”だ。お前もこれを求めてやってきたのだろう?」
そう言って男は箱の中から小瓶を手に取り、こちらに差し出した。それを受け取ったテメノスは息を呑む。これは、街で横行している薬そのものだ。“神のご慈悲”は適当に並べた言葉だったが、どうやら男はこの薬のことを指したのだと思ったらしい。
見れば、男も同じ小瓶を手に持っている。そしてなんの躊躇いも無く小瓶の蓋を開けると、その中身を飲み干した。その様子に驚いたテメノスが一歩後ずさる。
「このソリスティアの信徒は愚か者ばかりだ。教会は聖火を悪用し民を欺いていることに気が付いていない。聖火の加護など、有りはしないのだッ!」
薬は遅効性と聞いていたが、男の声は徐々に荒く、大きくなっていく。長いこと常飲しているのかもしれない。
男は濡れた口元を手で拭いながら、テメノスにも飲むように促してきた。
「さあ、共に真実へ近づこう」
こんなもの、何が真実なものか。そう言って杖で殴ってやりたいが、それよりもこの場所の情報が欲しいのでなんとか堪える。
薬を飲む振りをしながら男の様子を窺っていると、男はべらべらと聞いてもいないことまで喋り始めた。
この場所には、以前から聖火教会に疑念を抱く者が集まっていたらしい。聖堂機関の事件及びカルディナの犯行が白日の下に晒されてからは、その活動は更に活発になり異端の集い場となったようだ。
そんなとき、異国からこの薬が流れてきた。薬の保管場所として、ここはうってつけだったようだ。裏社会の連中に高額で薬を流しながら、その効果から“神が与えた解放”として異端の間で常飲されるようになったらしい。
脳が異常をきたす状態を解放と呼ぶなど愚かな、と笑いたくなる。しかし、こんなものに縋らないと何も信じられない人間が一定数存在することもまた事実なのだ。この事態を解決する術を考えねば……と黙考していると、男がテメノスに近づいてきた。
「どうした、飲んでいないではないか」
「いえ、少し考え事をしていて……」
「そんなもの“神のご慈悲”が解決してくださる。貴様も共に解放されるんだ!」
男はテメノスの顎を掴むと無理やり上を向かせ、強引に薬を飲ませようとしてきた。
「や、やめ……ッ!」
口を閉じ、なんとか抵抗する。しかしその声は届いていないだろう。男の目は充血しており、既に薬の効果が表れている。
致し方ないと、テメノスは目の前の男の腹を蹴り距離を取った。鳩尾に入ったようで、男は腹を押さえながらむせ返っている。
「貴様、我らの仲間ではないな……!?」
男が顔を上げながらドスの効いた声で叫び、こちらを睨む。気が付くのが遅いのはそちらだろうと睨み返してやった。男はふらふらとした足取りになったかと思うと小瓶を振り、テメノスに中の液体がかかる。突然のことに驚いて顔にかかった薬を拭うと、その間に襲い掛かってきた。
危険を感じ咄嗟に詠唱しようとしたが、喉を押さえられて声が出ない。そのまま床に押し倒され、首を絞められる。
「我らの敵は……排除せねば……ッ!」
男は完全に正気とは思えない顔をしている。息が出来ず意識が遠のきそうな中、礼拝堂の扉が開かれる音がした。
「テメノスさん!」
それと同時に聞こえた、どうしても安心してしまう声。やっと来ましたか、遅いじゃないですか。そう恨み言を言ってやりたいのに、今の自分では難しそうだった。
騎士団と思われる人影が礼拝堂に駆け込んできて、テメノスを捕えていた男を取り押さえている。
安堵から目を瞑ると、こちらに近づく足音が一つ。これは、彼に違いない。