異端審問官は新米子羊の夢を見るか?
【2】
次の日、クリックより先に目を覚ましたテメノスはベッドの上で膝を抱えていた。そのまま膝に額を押し付けながら昨夜のことを思い出す。
(あれで良かった、はず……)
クリックに幻滅してほしかったのに、そうはならなかった。更には自分まで流されそうになってしまったことを悔やむ。
あの後は、部屋に戻ってきたクリックに何度も謝罪された。彼は何も悪くは無いというのに。
テメノスはしょげている子羊を適当にあしらってから入れ替わるようにシャワーを浴びに向かった。宿に備え付けのシャワールームの中では自身の熱を沈めることに集中したせいで、せっかくの熱い湯だというのにひどく疲れた。部屋に戻ってもとくに会話は無く、おやすみなさいとだけ告げてベッドに潜り込んだ。
そこそこに良い宿だったのでふかふかのシーツと枕が包んでくれる。しかし隣にあるベッドから聞こえてくる音が気になって仕方がなかった。ずっと心臓がばくばくとうるさく、とても眠れる状態ではなかったのだ。
結局眠りに付けたのは数時間後だったと思うが、それでも身についた習慣から普段と同じ時刻に目が覚めた。朝に弱いらしいクリックは未だ夢の中。そろそろ起こしてやらねばならないかと思うが体が動かない。しかしこのまま放置するわけにもいかない。
テメノスは重たい身体を起こしてのそのそとベッドから降り、隣のベッドで眠るクリックに近づいた。覗き込むと、無邪気な寝顔を晒していた。こちらの気も知らず呑気なものだと思うと急に苛立ってきて、高く形の良い鼻を摘まんでやった。すると息苦しいのか彼の髪と同じ色の眉が寄せられ、うう……と小声で唸り始めた。少し可哀そうになって手を離したが起こしてしまったようで、閉じられていた目がゆっくりと開いていく。
「あれ、テメノスさん……?」
「……おはようございます、もう朝ですよ」
クリックはテメノスの顔を見つめたまま動かない。まだ夢の中なのかと思い起こそうとしたら、突然クリックの腕が伸びてきてベッドに引きずり込まれてしまった。布団の中まで抱き寄せられ、身体を拘束される。
「ちょっと、クリックくん!?」
「えへへ、おはようございまぁす……」
これは、完全に寝ぼけている。どうにか彼の腕の中から逃げ出そうとするが無駄だった。力で敵うはずがない。厚い胸を叩いてみても効果は無かった。
どうしたものかと考えあぐねていると、ふいにクリックの顔が近づいてきた。それに釣られるようにテメノスもそちらへ視線を向けると、なんの断りもなく頬に口づけられてしまった。
「は……?」
何が起こったのか分からない。そのまま固まっていると、小さなリップ音を立てながら額や頬に何度もキスが降ってくる。いい加減やめさせなければならないのに、びくともしない。この筋肉子羊め。
しばらくしてキスの雨が止んだのでやっと解放されるのだと思った。しかし、今度は首筋を這うように舌が辿り、テメノスの身体はさらに強張った。
「ひ、ぁっ」
思わず高い声を出してしまう。それに気をよくしたらしいクリックはさらにテメノスの弱い部分を舐めたり甘噛みしたりを繰り返している。自分がこんなにも首が弱いだなんて知らなかったと、テメノスは必死に身を捩って逃げようとした。それも無駄に終わってしまったのだが。
「やだ、クリックくん……やめ……、ぁ!」
「テメノスさん、かわいい……」
「……この、いい加減にしなさいッ!」
なんとか片腕を解放して、彼の無防備な耳を思い切り引っ張った。すると「いでで!」と情けない悲鳴をあげ、やっと完全に目を覚ましたらしいクリックは目の前のテメノスを見て驚いたように瞬きを繰り返していた。
「あれっテメノスさん、なんで僕のベッドに……?」
「……なんでもいいから、はやく離していただけますか?」
「えっあ、……ああ!?」
クリックはようやくテメノスを抱きしめていることに気が付くと、慌てて密着させていた身体を離した。自由となったテメノスはするりとベッドから抜け出し、乱れた寝間着を整える。
「君が朝に弱いということがよく分かりました。次からは寝ている君へみだりに近づかないようにします」
「あの、僕……なにかとんでもないことをしてしまったのでしょうか」
起き上がりながら凹んでいるクリックを見て、テメノスは溜息をもらす。しゅん、と項垂れている姿を見るとどうしても甘やかしたくなってしまうのはどういった感情なのかが分からない。この新米子羊に振り回されているようで、どうにも落ち着かない。
「もういいです。気にしなくていいので、はやく支度してください。今日も仕事が山積みですよ」
クリックに背を向けて着替えを始める。しかし、まるで手がかじかんでいるかの様に思い通りに動かない。
その理由がなんとなく分かって、テメノスは更に深いため息をついた。
* * * * * * *
「それで、今日はいかがいたしましょう。昨日ある程度の情報は得ましたが……」
「支援要請を出しているので昨日の男が吐いたアジトの方は聖堂機関の方々にお任せするとして、私たちは異端について調べましょうか」
「と、言いますと……?」
昨日捕まえた男は、異端ではなかった。しかし事件の裏に異端が絡んでいる可能性は高い。そこを詳しく調べる必要がある。
ニューデルスタで広まっているという件の薬の出所は既に分かっている。問題は、何故この薬が横行したのかということ。
薬の効力としては一時的な多幸感を与えつつその後は強烈な頭痛や感覚の変容など人体へ悪影響を及ぼし、更には煙草やアルコールのような依存性を持っているという。
以前にもこのような薬はあった。危険性を問題視されすぐに取り締まられたため、今のご時世で世に出ることは無くなった。裏社会は知らないが。
過去に世間へ出回った薬は粉の様なものだった。一度吸うだけで天国へ導かれるのだとたちまち噂になり、世の中から消えるのも速かったとか、なんとか。
しかし今回の薬は違った。粉末ではなく透明の液状で、微かな甘みがあるらしい。遅効性で見た目も通常の飲料と変わらず、更に少量の使用であれば身体を熱っぽくさせて感覚を鋭敏にする言わば媚薬の様な効果のため危険性は薄く、見つかるリスクが低いという報告を受けている。
以前から気になっていたことがある。ニューデルスタには大きな遊戯場があるが、その近辺に今は使われなくなった礼拝堂があるのだという。ただの噂だと思っていたが、今回の事件を聞いた時にこの話を思い出した。この事件に関わろうと思ったのは、この件があったからだ。誰の監視下にも無い礼拝堂ならば、異端が潜んでいる可能性は高い。そこから薬を流している可能性も大いにある。昨日の男が吐いたアジトや流通経路は礼拝堂とはまったく違う内容であったが、男が知らないだけで隠された存在だってあるだろう。
そういうわけで、今回の事件の鍵となる薬を辿れば異端にたどり着けるかもしれないのだ。アジトだのなんだのは聖堂機関に任せて、自分は本業である異端について調査させてもらうことにした。
「見えているものがすべてとは限りません。私たちは裏方らしく、隠されたものを探しましょうか」