がちゃがちゃ

あなたなしでは生きられないのに

 ウェルズリー家の末っ子として生まれた僕は、大人に手を焼かせてばかりの問題児だった。
 当時8歳だった僕は屋敷の廊下や庭を走りまわってはナニーを困らせ、家庭教師を怒らせ、両親を呆れさせる。そんな子どもだった。
 というのも、父親は商売、母親は社交界にしか興味が無い家であったことが関係していた。末っ子で且つ年も離れているのできょうだい達も可愛がってはくれていたが、兄達は事業で忙しく、姉達ははやくに他家へ嫁いで不在のため、家に居ても誰にも構ってもらえなかったのだ。
 貴族と言えどウェルズリー家の領地は田舎の農村ばかりで遊び場など無い。この歳では夜会にも出られないので年の近い友人もいない。外に出れば森や広大な牧場があるので興味津々に出かけたこともあったが、過去に領内のどこかで放牧中の子羊に追いかけ回されたことがトラウマとなり、あまり出向かなくなった。我ながら情けないと思う。
 そんな理由から、大人たちの気を引くために屋敷の敷地内を駆け回るばかりだったのだ。

 そんな僕にも、運命の日が訪れた。
 ある日の朝、ナニーの目をかいくぐり庭へと飛び出した僕はこの家で一番大きな木に登っていた。最近は屋敷内に隠れてもすぐ見つかってしまうので、こうやって大人たちには簡単に手を出せない場所へと逃げることを覚えていたのだ。
 と言っても子どもの木登りの能力には限界がある。服が汚れることなど構わず一番手前の太い枝がある場所までなんとか登るとそこへ跨り、僕を探して走り回るメイドや執事の姿を遠めに眺めることにした。今は大きな葉や枝がカーテンとなり隠れられてはいるが、いずれこの場所も見つかってしまうだろう。この後はどうしようか……と考えていると木の根元へ、僕ではない別の誰かの影が差したのが見えた。
「坊ちゃま」
 兄達がいない今、この家で坊ちゃまと呼ばれるのは僕ひとりだけだ。どうやら早速見つかってしまったらしい。
 下を覗き見ると、一人のメイドがそこに立っていた。身長も声も、どちらも高くも低くもなく中性的な人物だった。そのため性別は分からなかったが我が家のメイドの制服を着ているので女性なのだろうと推測する。
 しかし、屋敷にあのような僕とそう年の変わらないメイドはいただろうかと首を捻った。この家は家族だけでなく使用人達も僕とは年齢が10以上離れている者ばかりだ。いくら問題児とはいえ屋敷内にいる人間の顔ぐらいは見たことがあるので、存在しないはずの彼女に違和感を覚えた。
 もしかしたら怪しい人物かもしれないので、僕はメイドの呼びかけには答えずそのまま木にしがみついた。捕まらないよう、そのままさらに上へと逃げようとしたのだ。
 しかし、それが良くなかった。足をかけた場所が悪く、踏み外してしまった。
「あ――」
 引力に逆らえない体は空中に投げ出され、浮遊感を受ける。その途中で、一瞬だけメイドが驚いた顔をしているのが見えた気がする。
 そうして、僕はそのまま地面に叩きつけられる……はずだった。
「……大丈夫ですか?」
 だが、そうはならなかった。なにか柔らかいものが受け止めてくれている。確認するまでも無い。
 僕は慌てて立ち上がり、下敷きとなっているメイドへ手を差しだした。
「ごっごめんなさい!」
 きっと僕は、泣きそうな顔をしていたのだろう。メイドは上半身を起こすとふわりと笑って、僕の手は取らず自力で立ち上がると服の裾を手ではたき、汚れを落とした。
「私のことはお気になさらず。それより坊ちゃま、お怪我は?」
「な……ないよ。どこも痛くない」
「そうですか。でも見えないだけで傷になっているかもしれませんね、誰かに診てもらいましょう」
 そう言って、メイドは僕の服についた汚れを落としながら差し出したままだった手を優しく握ってくれた。あたたかくて、まるで夢のようだった。僕の手よりも少し大きな白い手を離さないよう、ぎゅっと強く握り返したのを覚えている。
 見上げると、そこにはひだまりのようにあたたかく微笑むひとりのメイドの姿。宝石の様な翡翠の瞳に風に揺れる白銀の髪、ほんのり色づいた頬と形の良い小さな口元。すべてが綺麗で、胸の奥が苦しくなった。
 いつだったか、領内にあるどこかの庭園で咲き乱れるチューリップ畑を見たことがある。あれを見た時の感動と似たものが全身を駆け巡った。
 これが僕とテメノスさんとの出会いで、人がそれを恋と呼ぶのだと知ったのは、もう少し後になってからだった。

 * * *

 どうにも昔から朝に弱い僕は、自力で起きられたことがない。
 今日だってそうだ。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいるが一向に目を覚ます気になれない。
 頭まで布団を被ったままでいると、ドアを二回ノックする音が聞こえた。
「おはようございます。起きていますか?」
 ドアの向こう側から聞き慣れた声がするが、返事などできないまま黙っていた。
 するといつものことで慣れているのか、ドアは静かに開けられた。布団を被っているのでその姿は見えないが、声と音で誰が入ってきたのかは分かってしまう。
 しばらくそのままでいると、カーテンがシャッと勢いよく開けられる音が聞こえた。きっと部屋中に光が溢れているのだろう。
「ほら、いつまでそうやってるんです?」
 布団の上からぽんぽんと叩かれ、僕はやっと体を起こした。
「おはようございます……」
 寝起きの掠れた声で朝の挨拶をすると、僕の世話係のメイドは微笑みながら「はい、おはようございます」と淡々と返してくれた。
「湯浴みを終えたらさっさと着替えてくださいね。朝食のあとは今日の夜会までに準備がございますから」
 面倒だな、と思いながら欠伸をすると「面倒だなって顔は外では控えてください」とくぎを刺された。彼女にはなんでもお見通しなのだ。
 
 8歳のあの日、僕は屋敷に来たばかりのテメノスさんに恋をした。一目惚れだった。
 当時の幼い僕はその時まで問題児であったが彼女に「駄目ですよ」と注意されれば素直に聞く子どもとなり、彼女だけに懐く少年となった。それは18歳になった今でも変わらない。
 そして気が付けばテメノスさんは早々に僕専属の世話係になってしまっていた。朝起こしに来るのも、毎日の管理も、雑談の相手も、出かける際の付き添いも、すべて彼女に任せるようになったのだ。
 だから多少砕けた口調で話しかけられても不快ではないし、これは二人のときだけなのだと思ったら特別な関係の様に思えたので咎めない。友人が少ない僕にとって心から話ができる数少ない相手なので、気楽でいられるのはありがたいのだ。
 僕のために屋敷にいるような状況について本人から文句を言われたこともないが、かといって彼女から好意を受けたこともない。なぜ分かるかと言えば、僕は10歳になった頃、彼女に一世一代の告白をしたのだ。大人になったら結婚してくれ、と。
 あの時のことは今でもよく覚えている。僕の告白兼プロポーズを受けた彼女は、にこにこと微笑みながら「ごめんなさい」と言い放ったのだ。
 それでも僕はめげなかった。まだ子どもだから相手にされていないだけだと。僕より年上の彼女に相応しい男になろうと、心に誓ったのだ。
 それからは、毎日のように彼女へ愛を伝えた。しかしその度に「まだそんなこと言ってるんですか」だとか「馬鹿なこと言ってないで少しは社交界に興味を持ってください」と返されている。決して照れ隠しなどではなく本心なのだろうと分かってしまう。それでも僕は諦めなかった。
 
 昔のことをぼんやりと思い返しながら、隣の部屋に取り付けられているバスルームでてきぱきと湯浴みの準備をしているテメノスさんの姿を眺める。
 彼女は他のメイドと同じ制服を着ているが、僕には違って見えていた。首元まで覆われているクラシカルなメイド服に、フリルがあしらわれたエプロンとカチューシャは見慣れた格好なのに、上品だと目を奪われる。彼女は女性にしては少し背が高く、ふくらはぎまで伸びているスカートの裾は今日も歩くたびに楽し気にふわりと揺れていた。袖口のフリルも彼女の白い手と長い指と縁取っているようで、よく似合っている。
 バスタブに湯を溜めている最中のテメノスさんは僕の視線に気が付いたのか、眉を寄せて「私を見ても良いことなんて無いですよ」と小言を吐いた。
 そろそろ本気で怒られそうだったので、先に彼女が用意してくれていた湯で顔を洗い、湯気の立つ紅茶を飲んだ。そうすると微睡みは遠ざかり、頭の中がクリアになっていた。

「準備ができたので、私はこれで」
 いつの間にか湯浴みの用意を終えていたテメノスさんは一礼して、部屋から出ようとした。
 そんな彼女の腕を掴み引き留める。怪訝そうに見上げられ、一瞬だけ息が詰まった。
「……何か?」
「好きです。僕と結婚してください」
 この言葉に偽りなどない。いつだって本気だ。だけど今日もきっと断られるのだろう。
 そう思っていると、テメノスさんはいつもの様にふわりと微笑み、そして背伸びをしてその綺麗な笑顔を近づけてきた。
「その言葉も……今日で何回目でしょうか」
 息遣いが伝わる程、柔らかそうな唇がゆっくりと近づいてくる。その様子に見惚れていた僕は動くことが出来ず、彼女の次の行動を待った。
 ついに心を動かしてくれたのかと期待に満ちて、思わず喉が鳴りそうになる。
「ふふ。諦めの悪い子羊くん、君は何も分かってない」
 僕が昔子羊に追い回されてトラウマになっていることを知っている彼女は、時折こうやって呼び方を変えて僕を揶揄うのだ。
 今はそんなことは気にならない。互いの唇が触れそうになる。
 しかし、彼女は人差し指を僕の唇に押し当ててかかとを落とす。二人の関係は相変わらず健全なままとなり、今度は僕が眉を寄せた。
「期待だけさせて、ずるいですよ」
「どっちがずるいんだか。ほら、せっかく準備したんだからお風呂に入ってください」
 不機嫌そうにくるりと背を向けたテメノスさんの腰を抱き寄せる。今では僕の方が彼女よりも背が高くなり、こうしてしまうとすっぽりと腕の中に収まってしまう。出会った頃は手を引かれたり抱っこされるばかりだったのに。
 そして抵抗されないのを良いことに、僕は少し調子に乗ってみることにした。
「……一緒に入りますか?」
 瞬時に手を抓られ激痛が走る。その勢いで彼女を離すと、今度こそ部屋から立ち去ってしまった。
 一人残された僕はのろのろとバスルームへ向かうと頭から湯を浴びて、次はどうアプローチしようかなどと考えていた。