泡沫に帰す
気が付けば、宿の自室へ戻ってきていた。
ベッドへ寝かされた状態だったため体を起こす。
すると、すぐ隣から「テメノスさん」と私の名前を呼ぶクリック君の声が聞こえた。
「よかった、もう起きて大丈夫ですか?」
私が頷くと、彼はベッドの横へ置かれていた椅子へ座り、水の入ったコップを差し出してきた。
それを受け取り一口飲む。目覚める前までのことは、夢だったのではないかと思えた。
「あなたに無礼を働いた男は機関へ預けています。……審問、されますか?」
首を横へ振る。ただ私に対して異常であっただけで、異端とは考えにくい。
機関での取り調べで異端の気配が表れれば対応しよう。そうでなければ、極力関わりたくは無かった。
「あの、テメノスさん」
クリック君は椅子に座ったまま、どこか居心地が悪そうに膝上で手を組んでいる。
こちらを見ているのに、どこか、もっと遠くを見ている様に感じた。
「僕の役目はあなたを守ることでした。ですがここまでの道中、そして今日。あなたを守るどころか、危険な目に遭わせてばかりいます」
彼の言葉に、それは、と声に出そうとして失敗する。
私の言いたいことを分かっているようで、彼は困ったように笑っていた。
「テメノスさんは優しいから、きっと僕のせいじゃないって言ってくれようとしているんですよね。ですが、例えあなたが僕を許したって、僕が僕自身を許せないんです」
彼の目に涙が浮かんでいる。
違う、泣かせたいわけじゃない。もっと伝えたいことがある。なのに、伝えられない。
見れば、彼は鎧を脱いでいた。時計を見ると時刻は深夜で、おそらく寝たきりの私へ長時間の間ずっと付き添ってくれていたのだろう。
差し出された右手は、思っていたよりも大きかった。
普段見ることのない、剣を握り、幾度となく誰かを守ってきた無骨な彼の手。けれど今、その掌はひどく無防備に私へ向けられている。
ぎゅっと握り込まれたままだったその手を取ると、肌から体温が伝わってきた。
「……?」
クリック君は不思議そうにこちらを見ている。
私は彼の手のひらへ、いつもように……いや、より丁寧に『ありがとう、君のおかげ』と綴った。
「それは……あなたを助けるのは、当然のことです」
それでもクリック君は自分を責め続けている。
どうすれば伝わるのだろう。そう考えながら、剣だこができている彼の手のひらをじっと見つめる。
何かを書こうとして、違う、と留まる。
声であれば伝わったのだろうか。いや、きっとそれも違う。
私の中の奥底へ眠っているもの。それの伝え方が、伝えるべき言葉が、分からない。
「——テメノスさん」
クリック君に名前を呼ばれ、ゆっくりとそちらを見上げる。
そこには、泣き顔から少しだけ落ち着いた青年の顔があった。
「僕に伝えたいこと、教えてくれませんか」
私は首を傾げた。
彼はいつだって私の言いたいことを理解してくれた。何も言わずとも見抜いてくれていて、それが心地よいとさえ考えていたのだ。
「あなたのことは分かっているつもりでした。だけど、テメノスさんの言葉で教えてほしいんです。それから、実はずっと……他の人がテメノスさんに手へ筆談してもらっているのが、羨ましかったんです。だからこうして、あなたが僕へ言葉を贈ってくれるのが、嬉しくて」
くしゃりと笑う顔が眩しくて、私は顔が熱くなっていくのを感じていた。
もう一度彼の手のひらへと向き直る。自然と手に力が入ってしまって、ふう、と息を吐く。
指先が触れる。そこから全身の熱が伝わっていくようで、なんだか気恥ずかしい。
思えば、彼の素肌へ触れるのは初めてだった。それが緊張となって指先が震えてしまうが、彼は黙って見守ってくれている。
「……、——」
何を書けばいい。
違う。何を書くべきかは、とっくに決まっていた。
決められずにいたのは、伝える勇気だけだった。
指先を滑らせる。一文字目を書く前に、息を呑む音が聞こえた。
『す』
たった一文字。それだけで、クリック君の肩が小さく震える。
私は文字を書き続けた。
『き』
二文字。この二文字を書き終えるだけで、何時間も費やしたように感じる。
もうこれ以上の言葉は、もう必要ない気がした。
手のひらへ残った文字を、クリック君はじっと見つめている。
彼はそっと私の手を包む。優しく、壊れ物へ触れるように。
「……、僕」
一度言葉を切り、小さく息を吸っている。
「僕も、同じです」
それだけ言って笑った。
いつもの、太陽みたいな笑顔だった。
けれど今日は、その笑顔が少しだけ泣きそうに見えた。
「あなたのことが……テメノスさんのことが、初めて会ったときから好きでした。一緒に笑ってくれたときも、隣で戦っていたときも、叱られたときだって。ずっとずっと、あなたに夢中だったんです」
照れくさそうに続けるクリック君の笑顔が眩しい。私が目を反らそうとすると、彼は私を抱き寄せた。
「僕のこんな気持ちはあなたにとって迷惑になると思っていました。困らせるだけだって。だから言えなかったんです」
それは私も同じだと伝えたくて、彼の背に腕を回して抱き返した。
すると嬉しそうに笑う声が聞こえてきて、どんどん心臓の音が大きくなっていく。
「ずっと不思議だったんです。何も書かなくてもテメノスさんが何を考えてるのか少しだけ分かってしまう。だから、はじめは困らないって思っていました」
だけど違ったのだと、彼は首を横へ振った。
「実際は……、違いました。分かることと聞くことは全然違うんだと気が付いたんです」
その言葉に胸が締め付けられる。
「僕、本当は……」
体を離し、二人の目線が絡む。
「テメノスさんの声を、ずっと聞きたかったです」
そう言った彼と、ゆっくりと唇が重なった。
その瞬間だった。
胸の奥で、何かがほどけた。絡まっていた糸が一本ずつ解けていくように。
薬師は言っていた。もう一度何かの衝撃があれば声は戻るかもしれない、と。
もう一度、私は彼の名を呼ぼうと口を開く。
どうせ出ない。そう思っていた。
「……クリック君」
二人とも、動きを止めた。
静かな部屋へ自分の声が落ちる。それは少し掠れていた。
けれど確かに、私の声だった。
「……え」
クリック君が目を丸くしている一方で、私はもう一度口を開いた。
「クリック君」
彼は何も言わなかった。ただ、泣きそうな顔で笑っている。
その声が震えていて、私はゆっくりと微笑んだ。
「戻りました……。やっと名前を呼べた、君のおかげです」
久しぶりに発した言葉は、自分でも驚くほど自然だった。
クリック君は目元を擦っている。
「おや、また泣いているんですか?」
「ち、違います!」
「本当ですか?」
「本当です!」
そう言った途端、二人で笑ってしまう。こんなやり取りはいつぶりだろう。
書庫で会った日のことを思い出した。あの日も彼は、人魚姫を読んで泣いていた。
王子へ想いを伝えられず、泡となって消えた姫。あれは悲しい物語だった。
けれど、私は人魚姫ではない。
想いは伝わった。言葉は届いた。
互いの想いを確かめるため、もう一度、今度は私から口づけた。
優しく唇へ触れる温もりを受け入れる。そんな、短く穏やかな口づけだった。
離れた先で、クリック君が照れくさそうに笑う。
「……これで、本当に返せましたね」
「何をです?」
「泡沫です」
彼が私の手を握る。
「あの童話のように泡になって消えるはずだった想いも、もう、どこにも行きません」
人魚姫を読んだ書庫で、私は「ただのおとぎ話だ」と笑った。
けれど今なら分かる。悲しい結末だけが、人魚姫ではない。
伝えられなかった想いが、誰かに受け止められる未来だってあっていい。
そうして消え損ねた泡沫は、ようやくあるべき場所へ帰っていく。
さよなら人魚姫。
私は、自分の言葉を信じることにした。