がちゃがちゃ

泡沫に帰す

 ストームヘイルへやって来て一週間が経とうという頃、私は既に自分の声については諦めかけていた。
 治るにしても、きっとすぐではない。時が解決するものだろう。
 だから聖堂機関との用事が終われば、すぐにフレイムチャーチへ戻ろうと考えていた。

 いつものように、クリック君は私へ同行している。
 ただ喋れないだけで子どもではないのだから四六時中付き添っていなくてもいいと言っても、彼は頑なに首を横に振った。
「何かあってからでは遅いですから」
 それはそうなのだが、それにしても用心深すぎやしないだろうか。
 しかし彼は頑固な男だ。それに私がこうなった原因は自分にあると思っている。だから譲らないのだろう。
 ……原因が彼である、という点については否定しない。しかし、それは別の方向で、ではあるが。

 街中を並んで歩いていると、私たちの横をすれ違った若い女性が地面に躓き転びそうになっていた。
 それに気が付き振り返ると、クリック君も同様にそちらへ向いている。
 そして即座に、倒れそうになっている女性を受け止めていた。
「——大丈夫ですか?」
 クリック君は女性を支えながら、心配そうに声をかけている。どうやら無事なようで、何も無かったことに私も胸を撫でおろした。
「あ、あ、あの。騎士様、その……ありがとうござい、ます」
 女性はしどろもどろに礼を述べている。
 よく見ると、顔が赤い。そして「無事でよかった!」と無垢な表情を浮かべている彼を、夢を見ているような瞳でうっとりと見つめていた。
(ああ、なるほど)
 この状況を見れば、誰でも女性の変化を察しただろう。
 きっと当の本人である、彼以外は。

「それでは、僕たちはこれで」
 女性に頭を下げたクリック君は踵を返そうとしたが、女性に腕を掴まれて再び足を止めることとなった。
「騎士様、お待ちください。是非とも、お礼を……!」
「礼なんて、そんな」
 必死に呼び止めている女性に対して、彼は困ったように、だけれど笑顔を崩さないまま対応している。こんなときまで紳士であるとは、と感心すらしてしまう。
 軽口を挟むこともできない。何もできない。さて、どうしたものか。
 見れば、女性はクリック君を絶対に離すまいと、彼の腕を胸元へ抱き寄せるように掴んでいた。鎧を着ているのでその感触は分からないにしても、豊かな膨らみを押し付けられ多少なり狼狽えているようだ。
 そんな彼の姿を見て、このまま置いて行こうかなんて考えが浮かんでしまう。実際はそんな子どもじみた真似などするはずがないのだが、今は許されそうな気がした。
 だけど、そうするとどうなるのだろう。私の知らぬ間に、彼はこのまま、この女性と……、……。
(おもしろくない——)
 私はなるべく二人の様子を見ないようにしつつ、しかし、喉の奥が詰まるような感覚に苛立ちが募っていった。

 そして、風に揺れる彼の白いマントが目に入った。
 なんとなくそれを掴んで、ちょん、と引っ張ってみる。
 どうせ気づかれない。そう思っていたのに。
「テメノスさん……?」
 クリック君が振り返ってきて、目が合ってしまう。
 まさかこんな些細な行動が気が付かれるとは思わず、自分が引っ張ったというのに咄嗟に目を反らしてしまった。

「……ごめんなさい、本当にお礼は結構ですから!」
 クリック君は女性へ負荷がかからないよう腕を逃がし、私の前へと回ってきた。
 その顔がどこか嬉しそうで、胸の奥へ名前の分からない感情が積もっていく。
「お待たせしてすみません。さあ、行きましょうか」
 先程までの苛立ちは、いつの間にか消え去っていた。

 * * *

 この一週間は、定期的に薬師の診察も受け続けていた。
 形ばかりの診察とはなっているが、もしかしたら早く治る方法が見つかるかもしれない。それに、クリック君が少しでも私のことで心配を抱えないようにもしたかった。
 聖堂騎士としての任務もあるだろうに私の世話ばかりをさせていられない。だけど彼は私に付きっきりだった。申し訳なく思うが、無下にすることもできない。
 そんなとき、珍しくクリック君が私の傍を離れることになった。本部に呼ばれたらしく、数時間もすれば戻ってくるそうだ。
 一人で本部へ向かおうとする彼があまりにも不安そうな表情をしていたので『大丈夫です』と紙に書いた。
 それでも彼は私の両肩を掴み「何かあれば無理をしないで、必ず周りの人を頼ってください」と何度も何度も念押ししてきたのだった。

 そうしてなんとかクリック君を送り出し、宿に一人残された私は書類仕事でも片付けようかと机に向かった。
 が、しかし。なんとなくそんな気分になれない。窓の外を見れば快晴で、相変わらず雪は積もってはいるが比較的あたたかな一日になりそうであった。
 フレイムチャーチへいた頃は、こんな日は散歩も兼ねて村と大聖堂の間の巡礼路を一人で歩いていた。
 考え事をするのにちょうど良かったし、何より大聖堂へ行けば彼がいた。明るい太陽の下の、ひだまりのような彼の声を聞きたくて自然と足が向かっていた、気がする。
 
 自分の気持ちなど、とうに気が付いていた。これが恋だと言うのなら、叶わなくてもいいとさえ思っている。
 彼は私が欲していいような人間ではない。一方的な感情を与えられても迷惑なだけだ。彼には笑っていてもらいたい。困らせたいわけではない。
 悲しいことなんて無い世界で、いつまでも彼が彼らしく生きられるように。

 ——人魚姫は海へと飛び込み、叶わなかった恋心とともに泡沫となって消えてしまう。

 あの日の童話が呼び起こされていく。
 何を馬鹿なことを。私は人魚姫などではない。なんでもない、ただの一人の男だ。
 一人でいると、余計なことばかり考えてしまう。
 私は机に手をつくと立ち上がり、宿の自室を後にした。

 宿から出ると、夕刻前のおだやかな時間が流れていた。
 外の空気を吸ったことで、少し気力が戻ってきているような気がする。
 少し歩いてからまた宿へ戻ろう。そう決めて、私は辺りを散歩することにした。
 
 適当に散策していると、足が勝手に聖堂機関本部の方へと向かっていた。今日は用が無いというのに、どうやら癖になっているようだ。
 話せない私が顔を出したところで気を遣わせるだけだと思い踵を返すと、ちょうどその方向から一人の男がやって来るのが見えた。
 風貌からして、どうやら男は旅商人のようだ。多めの手荷物と防寒着に身を包んだ中肉中背のその男は、どうしてか私に気が付くなりこちらへ向かって来たのだった。
「失礼。もしかして、異端審問官様では?」
 男は私の隣へ来るなり、商人らしい人当たりの良い笑顔を張り付けたまま声をかけてきた。
 返事が出来ないので頷くだけに留める。すると私が喋らないことを不思議に思っているのか、男から笑顔が薄れていった。
 なので自分の喉に触れ、喋れないことを身振り手振りで伝えた。なんとか通じたようで、男は目を細めながら「なるほどな……」と呟いている。
「以前からそちらの聖堂機関へ異端審問官様が出入りしていると耳にしておりまして、是非とも一度お顔を拝見したいと思っていたのです。なので、お会いできて光栄です」
 私の顔を見たところで何も良いことなど無い、と伝えたいが声が出ないのでどうしようもない。
 しかし目を見る限り、男は本心から言っているようだ。いくら喋れないとは言え、このまま帰るわけにもいかない。
 なので私は、男の手を取った。そして分厚い手のひらへ、いつものように『ありがとうございます』と綴る。
 何も面白いことなど無いだろうに、男はそんな私の様子をじっと見ていた。ねっとりとした視線がどうにも落ち着かない。だから、文字を書き終えるとすぐに手を引っ込めようとした。
 しかし、それより先に男が両手で私の手を包み込んできた。どうしてかそのまま撫でられて、嫌な気配を感じて背筋が震えてしまう。
「ああ、貴方のお話はかねがね伺っております。噂通り、本当に美しい……」
 噂ってなんだ。そう思うと同時に全身が逃げろと訴えてきた。しかし手を引こうにも男の力が思ったより強く動けない。
 今すぐ離してほしいと伝える為に男の顔を見る。
 そこには先程までの笑顔を失い、目を細めた獣のような男がいるだけだった。

 慌てて辺りを見渡すが、陽が落ちる直前のこの時間帯は人通りが少ない。遠くにいる人間からは、商人と神官が会話をしているだけに見えるだろう。
(はやく逃げないと。でも、どうやって。助けを、でも声が、どうして、誰か——!)
 頭の中でいくつもの声が木霊する。しかし、どれも音にならないまま消え去っていく。

 気が付けば狭い通りの壁際に追い込まれていた。私の両脚の間へ男の膝が割り入っており、身動きが取れなくなる。
 ——何かあれば無理をしないで、必ず周りの人を頼ってください。
 そう言っていたクリック君の言葉が蘇る。
 誰にも頼らず、一人で大丈夫だと思っていた。しかし、実際はこの有様だ。
 薄暗い中の、男の値踏みするような視線が気持ち悪い。男は私の手を掴んだまま、あろうことか既に兆している己の中心へと導こうとしていた。
「声が出せないのなら好都合だ。それに、想像していた以上だ……、どうしてくれる、我慢できそうにない。貴方のせいで、自分はこんなことに……ッ」
 ヒュッ、と悲鳴にならない声が溢れる。
 涙が頬を伝いそうになり目を瞑ると、突如掴まれていた手が解放された。
「……、……——?」
 固く閉ざしていた目を恐る恐る開ける。
 すると、そこには見知った影があった。

「大人しくしろ!」
 クリック君。そう呼びたいのに、声が出てこない。どうして。今すぐ、名前を呼びたいのに。
 クリック君が商人の男を取り押さえている。すると後からやって来た他の騎士が、逃げられないよう縛り上げていた。
 そして、足の力が抜けその場にずるずると崩れ落ちた私へと駆け寄ってきてくれた。
「テメノスさん、ご無事ですか!?」
 私に外傷が無いか確かめるように周囲へ気を配っている。怪我は無いことを確認すると、そのまま私を抱きしめていた。
「すみません、またあなたを……危険な目に遭わせてしまいました……」
 ぐす、と鼻をすする音が聞こえる。
 君が泣く必要など無い、これは私が招いた結果だ。今はそんなことすら伝えられない。
 だから彼の髪をそっと撫でた。すると顔を上げた彼と目が合って、安堵が押し寄せてくる。
「……テメノスさん?」
 張り詰めていた糸が切れたように浮いた心地になる。
 気が付けば、私は彼に身を預けるようにして意識を手放していた。