泡沫に帰す
次の日の朝、身支度を終えた頃に部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
「テメノスさん、おはようございます」
よく知る爽やかな声だった。
私がドアを開けると見慣れた姿がそこにあって、不安に押しつぶされそうになっていた体がどうしてか落ち着いて行くのが分かった。
今日は寝坊しなかったんですね。普段ならそんな軽口を叩いていただろう。
しかしそれが叶わない今、朝の挨拶を伝える代わりに小さく頭を下げる。
するとクリック君は「あなたが大変なときに寝坊なんてできないですよ」穏やかに目を細めていた。
昨夜のように、なぜ、と私は首を傾げる。
クリック君は「あっ」と声を漏らしながら口元に手をあて、そして気恥ずかしそうに口元を緩めていた。
「どうしてか分かりませんが、なんとなくテメノスさんの言いたいことが分かる気がするんです」
すみません、と続ける彼へ、私は首を横へ振っていた。
昨日、クリック君と別れたあとは自室で声が出なくなった原因について考えていた。
極寒の川へ飛び込んだことは、確かに体へダメージを与えただろう。
だけど原因はそこに無い気がして、あのときの状況をよく思い出そうとしていた。
(魔物に吹き飛ばされたクリック君が川へ落ちていく姿を見て、私は……——)
ベッドの上で薄暗い天井を見上げながら目を瞑ると、あのときの光景が蘇っていった。
考えるだけで恐怖がまとわりついてくる。
彼を失うと思った。二度とその声を聞けないと思った。
そんなことは、絶対にあってはならない。
「……ッ、……」
呼吸が苦しくなる。
こんな時ですら声は戻らず、弱々しい呻き声が出てくるだけだ。
胸に手をあて呼吸を整えることに集中すると幾分か落ち着いてきて、徐々に穏やかになっていく。
しかし胸の内は晴れず、歪みそうになる視界から逃げるようにうつ伏せになった。
(もし、原因が“彼”だったとして。どうすればいいのか分からない。私は……彼をどう思っている……?)
彼の命を救うことができた。それで十分ではないか。他に望むことなど無い。
再び瞼を閉じる。己の欲深さに嫌悪すると同時に、醜い感情を押し殺しながら夜に身を任せていった。
* * *
聖堂機関本部へ向かい、オルト君へ薬師の診断結果を伝えた。
すると「落ち着くまで滞在して構わない」と、私の身を案じてくれている。普段では考えられない待遇だ。
私がそんなことを考えていると、隣にいたクリック君は「オルトもあなたを心配しているんですよ」なんて笑っていた。またしても見透かされているようだ。
オルト君はやれやれと言いたげに肩を竦めながらも、小言を吐いたりはしなかった。
意思疎通の手段が筆談となってしまったが、思っていたほど不自由ではなかった。
初めの内は自分も対話の相手も慣れないことで戸惑いもあったが、数日も経てば慣れてしまっていた。
筆談もしくは手のひらへ文字を書くことで伝えることができる。
それに。
「テメノスさん、そろそろ休憩しませんか?」
昼を少し過ぎたころ、オルト君との打ち合わせを終えた私のもとへクリック君が駆けつけてきた。
「朝からずっとオルトに連れ回されているでしょう。あいつには疲れたって言いづらいでしょうし」
「おい。俺をなんだと思ってるんだ」
私の後ろにいた彼の親友が険しい表情のまま顔を出す。このやり取りを眺めるのが楽しくて、ついつい彼らを揶揄いたくなるのだ。
しかし今は簡単に口を挟むこともできない。眺めるだけに留めていると、クリック君は私の背中へ手を添えた。
「さあ、オルトが本気で怒る前に行きましょう!」
「ぐ……。まあ、休憩するには良い頃か」
実のところ、本当にちょうど疲れたと思い始めていた頃だった。
普段であればこの時間にはまだそこまで疲労を感じることはない。しかし声を出せないストレスや慣れない環境からか、体への負担が強かったようだ。
私のそんな些細な様子もクリック君は見逃さない。ここへ一緒に来た日から、ずっとこんな調子だ。
不思議なことに、私が何も伝えなくても彼にはお見通しなようで、筆談するより先に返事がやってくる。
傍にいるときだけではない。
誰かを呼び止めたいとき、水が飲みたいとき、寒いと感じたとき。
クリック君は文字を書くより先に私の考えを読み取り、行動に出ていた。
そういえば、とフレイムチャーチでの出来事を思い出す。オルト君に呼ばれたことを伝えたときも、一人で向かおうとしていたことや護衛の依頼を見透かされていた。
それについて何度か尋ねたが、「不思議と分かってしまう」という理由だそうだ。
だから、だろうか。彼と一緒にいる時間は、こんな状況でも何一つ不自由せず、いつものように穏やかに過ごすことができていた。
『君にはなんでもお見通しなんですね』
オルト君との筆談時、ついでにクリック君へこの言葉を綴ったことがある。
そのときの彼は、「なんでも、というわけではありませんよ」と自嘲気味に笑っていた。
* * *
夜、いつものようにクリック君に宿へ送り届けられる。
宿の主人は私の状態を知ったようで、部屋へ向かう途中に香油を渡された。
「心を静める香りがする香油です。神官様、どうぞお大事になさってください」
私はそれを受け取って、お礼を伝える為に主人の手のひらへ「ありがとうございます」と書く。
その様子を見ていたクリック君が部屋の前で別れる際に声をかけてきた。
「あの、僕も……」
どうしたのかと訊ねることが出来ず言葉の続きを待つ。
しかし彼は自分の手のひらを見つめるだけで、少しして「すみません、なんでもないです」と濁されてしまった。
自室へ戻った私は窓際へ向かった。
そして椅子へ座り机へ肘をつきながら、ぼんやりと手のひらを眺める。
今日、私は何度文字を書いただろう。
文字さえ書けば伝えたいことは伝わる。困ることもない。
クリック君にはなおさらだ。声がなくても、彼は理解してくれる。
それなのに、どうしてだろう。
以前よりも遠くなってしまった気がする。
(伝わることと、伝えることは違う。彼は私の望みを察してくれる)
だが、それは喉の奥に仕舞い込んだ言葉まで救ってくれるわけではなかった。
もし今、誰にも見せることのない本心を書いたなら、私は彼へ差し出せるだろうか。
そんなことを考えた自分へ、小さく笑う。
書いたところで、どうなる。どうせ消える文字だ。
まるで——。
ふと、数日前に読んだ童話が脳裏を過る。
王子へ何ひとつ伝えられなかった人魚姫。言葉を失い、想いだけを抱えたまま、最後には泡沫となって消えた姫。
私はあの時、ただのおとぎ話だと思った。
けれど今は違う。伝えたいことがあるのに、伝えられない苦しさを抱えている。
今夜は、あの物語が少しだけ分かる気がした。