泡沫に帰す
大聖堂の近くにある書庫は、想像よりも蔵書が豊富だ。
巡礼者だけではなく遠方から学者が訪れることがあるほどで、専門的な文献のみならず小説から子ども向けの絵本まで揃っている。
子どもの頃からこの書庫には世話になっていた。
暇さえあれば訪れ、気になる本は片っ端から手に取り、司書には「知らない本は無いのではないか」と声をかけられたこともあった。
そんな思い出深い書庫ではあるが、歳を重ねるにつれ訪れる頻度が減っていった。今では子どもの頃には無限に感じていたような自由な時間は少なく、用事がない限り顔を出すことがないからだ。
そして今日、久しぶりに書庫へ訪れた。
フレイムチャーチの書庫は静かだ。積み上げられた本の匂いと、窓から差し込む午後の日差し。それらを混ぜ合わせたような穏やかな空気が、この場所にはいつも流れている。
書庫へ来た理由は新しい紙芝居を作るために参考になりそうな絵本を探すためだ。
子どもというのは正直で、興味を惹かれないものには目を向けない。飽きを感じれば全身でそれを訴えてくるのだ。
残念ながら、私には子どもたちが持っているその感覚が無い。彼らが何を好きで何に嫌悪するのか、それを把握するため子ども達に人気の本を探して研究しようと考えていた。
そんなとき、書庫で見知った影を見つけた。
子羊のようにふわふわで、太陽をいっぱい浴びたような眩い金髪。そして私よりも少し背が高い後ろ姿。遠目からでも彼が誰なのかすぐに分かってしまう。
そのしっかりと伸びた背筋とは裏腹に、凛とした聖堂騎士の姿は、どうしてかどこか寂しそうに見えた。
「こんにちは、子羊くん」
背後から声をかけると驚かせてしまったのか、クリック君は肩をびくりと跳ねさせてから勢いよく振り返った。それと同時にふわふわの金髪も揺れて、きらきらとしている。
こちらを向いたクリック君は、何故か少し俯いていた。
「あ……、テメノスさん」
クリック君は本を読んでいたようで、その手には一冊の童話集があった。
それは昔から流通しているもので、私も幼い頃に読んだことはある本だ。
いくつかの有名な話がまとめられていて、誰もが一度は目にしたことがある。そんな本だった。
「君、そういった本に興味があったの?」
私が聞くと、クリック君は慌てたように本を後ろ手に隠す。
「いえ、そういうわけでは……ないのです、が」
照れなくてもいいものを。誰かに見られたからと言って後ろめたいような本などではないと言うのに。
普段とどこか違う様子が気になり顔を覗き込む。
そこには、涙を浮かべた青年の瞳があった。
「何を泣いているんです?」
再び声をかけるとクリック君は息を呑み、慌てて目の周りを手で擦り始めた。しかし赤く染まった目尻は涙の痕をはっきりと物語っていた。
「ち、違うんです。泣いていたわけでは……ッ!」
「咎めもしないし笑うつもりもありませんよ。何かあったのなら、話ぐらい聞きますが?」
彼が落ち着けるよう、普段よりも神官らしく微笑んで見せる。
すると私という人間性を知っているクリック君は訝し気にしていたが、観念したように肩を落としておずおずと手に持っていた童話集を差し出してきた。
彼が持っている本を見る。その色褪せた表紙には子どもが好みそうな、柔らかな絵が添えてあった。
「子どもたちに本を探すのを手伝ってほしいと言われたんです。昔読んだことがある本だったので、懐かしくなって少し見ていたら……その、この話が、記憶の中のものよりも悲しくて」
クリック君がぺらぺらとページを捲っていき、ある話の冒頭までたどり着いた。
「人魚姫」
そこに記されている童話のタイトルを見て、私は思わず目に入ったままを口にしてしまっていた。
それはあまりにも有名で、知らない人間などいないと断言できる話だ。
あらすじは、こうだ。海で暮らす人魚姫は、嵐の夜に助けた人間の王子に恋をするという童話。
禁じられた恋だと知りながらどうしても諦めきれない人魚姫は、魔女の力を借りて美しい声を失う代わりに人間の脚を手に入れる。
そうして王子と再会するが、彼は自分を助けた人魚姫に気が付かない。それどころか隣国の姫君と結婚するのだという。
悲しみに暮れた人魚姫は海に帰ろうとするが人間の姿ではそれは叶わない。
王子の命を奪えば脚も声も戻してやると魔女から伝えられるが、まだ王子を愛している人魚姫にはそれが出来なかった。
そうして人魚姫は海へと飛び込み、叶わなかった恋心とともに泡沫となって消えてしまう。
本によって展開や終盤のストーリーは異なるらしいが、大抵は人魚姫が悲しい結末を迎えて終わってしまう。
彼はこの話を純粋に受け取り、人知れず涙を流したというのか。
その無垢さに呆れることなどできず見上げると、そこには力なく笑う青年がいた。
「すみません、情けない姿を見せてしまいました。……久しぶりに読んだからでしょうか、何だか夢中になってしまって」
クリック君の言葉に何も返せず、私はもう一度その本を見つめた。
そこにはタイトルと一緒に挿絵も描かれていた。
美しい尾びれを持つ少女の絵。
王子に恋をした人魚姫。
愛する人の傍にいる為に、美しい声を失ってしまう。
けれど想いを伝えることは叶わず、最後には泡となって消えてしまう。悲しい物語だった。
「可哀想だと、思いました」
クリック君は本を閉じながら呟く。その一言に、書庫の静けさが一層深くなった気がした。
言葉とは不思議なものだ。誰かを救うこともあれば、誰かを傷つけることもある。
だからこそ、人は伝えるべき時に言葉を選ぶ。
あるいは、選びきれずに飲み込む。
「人魚姫は最後まで、王子を助けたのは自分だと伝えられませんでした。想いが叶わないだけでなく、伝えたいことがあったのに……好きだとも言えなかった」
表紙をそっと撫でながら、クリック君は続ける。
「もし一言でも伝えられていたら、何か変わったんでしょうか」
「どうでしょう」
クリック君の言葉に肩を竦める。
「童話というものは、往々にして教訓のために悲劇を選びますから」
「ですが……」
彼は何かを言いかけて、やめた。
きっと彼の中では、物語よりも人魚姫自身が可哀想だったのだろう。
人を疑うことを知らないクリック君らしい。
「ただのおとぎ話ですよ」
そう返し、彼から本を受け取ってもとに並べられていた場所へ戻す。
「現実には、そんな都合よく声を失うこともありません」
私が言えば、彼は少しだけ安心したように笑った。
「そう……ですよね。」
その笑顔を見て、ふと考える。
——もし、本当に声を失ったら。
伝えたい言葉を伝えられなくなったら。
そんなことを考えるだけ無意味だ。
彼にも私にも言葉はある。
声もある。
今ここで失う理由など、どこにもないのだから。
だから私は、それ以上その話を続けなかった。