プリズムに陥落
次の日の朝、ロイより先に目を覚ました私は昨夜のことを思い出していた。
夢を、見ていない。ここ数日は毎日のように見ていたあの夢を見なかったのだ。
そして家主を起こさぬようそっとベッドから抜け出し、泊めてもらったお礼に朝食を作ることにした。材料を用意しながら、疲れがないことにも気が付いた。
(やはりあの夢は夢魔の仕業だったのか)
明晰夢だから疲れていると思っていたが、夢魔に生気を吸われていたのだとしたらその可能性もある。
パンを切り卵を炒めているとロイが起きてきて「テメノスの朝食なんて久しぶりだ」と楽しそうに朝食の匂いを堪能していた。
「食材、勝手に使ってすみません」
「気にするな。久しぶりに僕も誰かと夜を過ごせて楽しかったしな」
言い方が気になるな、と思ったが言い返す気は起きず、そのまま朝食作りを続けた。
私が作った料理をおいしいと言いながら平らげるロイを見て、あらためて友人の存在に感謝した。
そうして、いつしか5年の月日が流れていた。
これまでの間、あの夢は見なかった。親しみを覚えていた彼に会えないことに対しての寂しさはあったが、ロイが過保護過ぎるのではないかというほどに心配してくるのでなるべくそれについては考えないようにしていた。
村外れで鳴いている羊たちを見るたびに思い出すことはあったが、縁があればまたいつか別の形で会えるだろう、などと楽観的になっていた。
そして異端審問官として板についてきたロイは、近頃は各地の教会がある土地を回ったり事件があれば審問のために赴くことが多く、フレイムチャーチにいることが少なくなっていた。
村を出るたびに「一人で大丈夫か」「不安なことは無いか」としつこく聞いて来るがいつも「大丈夫だから」と送り出している。今となっては平気じゃないのは向こうの方なのではないだろうか。
今回は長期の外出となるらしく、一月ほど帰って来れないらしい。なるべく一人になるなと言われたが、私ももう三十路の男で、身の危険を感じる様な年頃でもない。
幸いなことに大聖堂があるこの地では物騒なことをする輩は多くない。時折現れることもあるが、所詮は私一人でどうにかなる程度だ。なにより聖堂騎士が駐在しているので、なにも心配することなど無いのだ。
ロイがいないこと以外は平和な日々が続いている。
彼が村を出て一週間経った頃、いつもよりも静かな夜が訪れた。
寝る準備を終えてベッドに潜り込むと、はじめてあの夢を見た日を思い出した。あの日も、今日のように静かな夜だった。
その夜、深夜に目が覚めた。
何か聞こえたり夢を見たりしたわけではない。どうしてかやけに頭がはっきりとしており、そこで何かの気配を感じた。
(誰か……いる)
危険を感じ、体を起こそう……としたが、どうしてか動けない。
そうして気が付いた。何者かが私のベッドに入り、私に抱きついているような感覚がある。
しかし、部屋の中には誰もいない。当然ベッドの中も私一人だ。だけどやはり体は動かせず、身動きが取れない。
一度目を瞑り、意識を集中させる。この気配は知っている。危険などではない。穏やかで、優しく、包み込んでくれるような懐かしさ。
これは――――。
「……子羊くん」
ゆっくりと目を開けると、まるで蜃気楼のように視界が霞んだ。
ゆらゆらと揺れる視界がクリアになっていき、目の前には5年前に出会った彼が現れた。
「お久しぶりです、テメノスさん」
* * * * * * *
信じられない。目の前に夢の中で出会った青年がいる。5年ぶりだというのに、その海の様な目もくるくるの髪の毛も甘い声もしっかりと覚えている。服だけは夢の中と同じ騎士の格好ではなく、その辺の村人と同じようなシャツとズボンを身に着けていた。
そして何故か、そんな彼は私を抱きしめている。それはもう幸せそうな笑顔で。
「あの、動けないのでとりあえず離していただけますか」
混乱する頭をどうにか整理しつつそれを伝えると、彼は慌てて私から手を離した。
「わ、すみません!久しぶりに会えたのが嬉しくて、つい……」
彼はベッドの上で正座すると、何度も頭を下げていた。その間に自分の頬をつねってみる。痛いので、どうやら現実らしい。
これがロイが言う通り本当に夢魔なのだとしたら、案外怖い存在でもないのかもしれない。こんな悪魔がいてたまるか。
しかし、ただの不審者の可能性もあるので私も体を起こしながら本人に問うてみることにした。
「率直に聞きますけど、君って夢魔なんですか」
「一応はそういうことになっています……ええっと、人間はインキュバスと呼ぶそうですね」
なるほど、どうやら本当に夢魔らしい。嘘をついている可能性も無くは無いが、なんとなく私は彼を信じ切ってしまっている。
そもそも不審者であるなら既に私は殺されるか誘拐されるかしているだろう。離せと言われて大人しく離すやつが強盗とも思えない。悪魔だとも思えないが。
「なるほどね。君を信じるとして、子羊くんにはいろいろと聞きたいことが……」
「あの、僕の名前。教えてもいいですか」
目の前の彼が小さく手を上げている。挙手なんてしなくても、勝手に話せばいいのに。
「僕、クリックといいます。夢の中では伝えられませんでしたが……」
「そう、クリック君ね。どうして私は君の名前を覚えられなかったのでしょう」
「それは、本来は僕たちの名前は人間には発音できないからだと思います。でもどうしても伝えたくて、この5年で人間の発音に近づけられるよう練習したんですよ」
だから今は彼の名前を認識できているということらしい。どこか誇らしげに語る彼を可愛いなどと感じてしまう。
しかしそれと同時に警戒心も生まれた。彼の努力が如何程のものかは理解はできないが、私の為に……などと考えてしまうのは既にインキュバスの策略にはまってしまっているのではないか、と。
かつてのロイの言葉を思い出す。夢魔とは、弱っている人間の前に現れて生気を奪い……とここまで思い出して、私は再び口を開いた。
「どうして今更現れたんですか。今の私は昔のように弱ってはいないはずですし、しかも夢じゃなくて現実なんて」
聞くと、クリック君は申し訳なさそうに眉を下げてしまった。可哀想に、と撫でてやりたくなる衝動を必死に抑える。
「それは……僕だって5年も会えないのは寂しかったですけど、ある日結界……とは違うのですが、そんな感じのものが張られてしまって、この村に来れなくなったんです」
「結界のようなものって」
「説明するのが難しいのですが……。5年前の今日、テメノスさんはご友人の男性と寝ましたよね」
言い方、と思うがそこは敢えて突っ込まない。
彼が言っているのはロイのことだろう。確かに彼の家で同じベッドで一緒に寝はしたが、文字通り本当に眠っただけだ。やましいことなど何もしていないし、されてもいない。そもそも彼は親友で家族の様な存在でもある。事が起こるなど有り得ない。
「まさか、本当にあれで……?」
ロイは夢魔を追い払うために一緒に寝ようと言った。効果があるなんて思ってもいなかったが、しっかり効いていたようだ。
「あれから貴方を守りたいというご友人の想いと、ご友人に心配をかけたくないという貴方の想いが強まりました。それで僕は近寄れなくなったのですが……」
「ということは、君は本当に私から夢の中で生気を奪い取っていたんですね」
「え!いやまあ、そうなりますよね……」
正直、生気云々はどうでも良かった。ただ彼を揶揄いたかっただけだ。
しかしクリック君はしっかりと「しまった」という顔をしている。なんて面白い。照れたり慌てたり、草原を走り回る忙しない子羊のようだ。
「そうしたくないから5年前は手を出さずに神官である貴方に相応しい格好の人間の姿になって、人間っぽく話をするだけに留めてはいたのですが、結局は困らせてしまいました。あの時の力も弱まってきた今がチャンスだと思ったのですが、夢の中で会うだけでは我慢できずこうして実体として触れあってしまって……」
「ちょ、ちょっと待ってください。君、私に手を出すつもりだったんですか?」
「えっ。そうですが……」
しれっと恐ろしいことを言っている。とんでもないことをなんでもないように口走る目の前の男は本当にインキュバスなのだと実感し、身体が強張っていった。
「僕、運命の相手を探してるってお話したじゃないですか。あれは貴方のことですよ」
「は……?」
開いた口が塞がらない。その間にクリック君がベッドの上で距離を詰めてきて、どんどん壁際に追いやられていく。このままでは逃げ場をなくしそうで怖いはずなのに、彼から目を離せない。
「僕たち夢魔は、相手が誰でも言いわけではないんです。生気の相性が良い相手でないと近づいたところで意味が無いので……しかも僕は今まで合致する相手が見つかったことがありませんでした。5年前までは、の話ですが」
「それが、私だと言うんですか」
「そうですよ」
にこりと微笑む無害そうな男に狙われている。どうしたものかと思考するが、何をしたって意味が無い。相手は人間ではないのだから。
「その話が本当だとして、私にどうしろと言うのですか」
こんなことを聞くことこそ意味がないだろう。彼の目的など、その存在から分かりきっている。
でも、はっきりと彼の口から聞きたい。私に、どうしてほしいのか。
「……僕としては、インキュバスとしての務めを果たしたい。もう何百年も空腹の様な状態が続いているんです。かといって、貴方を傷つけたいわけじゃない」
じり、と寄ってくる男の表情には余裕がない。先程よりも近づいたので、その顔がよく見える。
凛々しくも幼さが残った眉。戸惑いに揺れる海色の瞳。高く通った鼻筋。少しだけ厚い唇。茶色がかったふわふわの金髪。
悪くない、なんて思ってしまう自分が嫌になった。すべてが自分の好みな姿なのは、夢魔が見せている幻ではないのだろうか。
見惚れている場合ではないのだろうが、どうしても目が離せない。
こんな時どうすればいいか、ロイは教えてくれなかった。