わたしは月を見ている
次の日の朝、目を覚ますとテメノスさんは既に身支度を終えていた。そしてベッドの上で寝ぼけている僕の頭を撫でながら「おはよう」と微笑んでくれる。
「お寝坊さんの子羊君、ご飯はテーブルに置いてあるものを食べてくださいね」
「おはようございます……そうか、テメノスさんはお仕事がありますよね」
「はい。なるべく早めに帰ってきますから、君はのんびり寛いでいてください」
それでは、と言い残してテメノスさんは出て行ってしまった。
一人残された僕は顔を洗い、テメノスさんが用意してくれている朝食を食べる。少し冷めたスープも、ふわふわのパンも、厚みのあるベーコンも、どれも美味しかった。彼が帰ってきたら感謝と感想を伝えよう。
その後は後片付けをして、室内で出来る軽い筋トレを行った。休暇中とはいえ気は抜けないし、いつ何があっても騎士としての役目を全うしなくてははらない。
しばらくして、窓を開けると気持ちの良い風がは部屋の中に入ってきた。とてもいい天気だ。少し外の空気を吸いたくて、支度を終えた僕は外へ向かった。
周辺を散歩していると、気が付けば足が勝手に村の教会へと向かっていた。すると子どもたちの楽しそうな声が聞こえたので遠くから覗いてみると、教会の前で紙芝居を呼んでいるテメノスさんがいた。
「そしてエルフリックの炎は、邪神ヴィーデを焼き尽くし……」
落ち着いた澄んだ声。穏やかな風に揺れる白銀色の髪。紙芝居をめくる繊細な手つき。次々と台詞を読み上げるテメノスさんに見惚れた僕は、その場に立ち尽くしてしまった。
恋人に気を取られた僕の意識がどこかへ行きかけた頃、テメノスさんは台詞を間違えたらしく子ども達に指摘されていた。するとその場は笑い声に包まれて、子ども達だけではなく他の神官達もみんな楽しそうに談笑し始めた。テメノスさんを含め、誰もが幸せな空間そのものだ。
(テメノスさんは、この村の人々から本当に愛されているんだ)
彼が旅をしていた頃には知ることができなかった姿を垣間見ることが出来て、なんだか胸の中があたたかくなっていく。
彼の世界を護りたい。彼の大切なものを護りたい。これからも、永遠に。
* * * * * * *
夕方頃、聞き慣れた足音と家の扉が開く音が聞こえた。
「ただいま。おや、いいにおい」
「おかえりなさい、テメノスさん!今晩はシチューですよ。もうすぐできますから!」
僕は帰宅したテメノスさんを出迎えると、すぐにキッチンへと戻った。煮込み途中の鍋の中身をぐるぐるとかき混ぜながら、良い頃合いかと味見をする。思ったより上手くできている気がする。
味見の途中でテメノスさんが興味津々に鍋を覗き込んできた。なので彼にも味見をしてもらおうと小皿に持って手渡す。そのまま味見をするには熱いのか、ふう、と何度か息を吹いて冷ましてから口に入れていた。
「……おいしい。君、料理の才能があったんですね」
分かりやすく目を輝かせて咀嚼している姿に、思わず頬が緩んでしまう。
「そう言っていただけて嬉しいです。大したものは作れませんが見習いの頃は先輩騎士用に大人数向けの料理を用意することもあったので、腕にはちょっと自信があるんですよ」
「なるほどね。これならいつでもお嫁に来てもらえそうだ」
その言葉に手が止まってしまう。混乱のあまり「お、およ、およよ」と呪文の様な単語を唱えていると、それを止めるかのように「夕飯、楽しみにしていますね」と頬にキスをされた。確信犯だ、絶対に。
我に返った僕のシチューをかき混ぜるスピードが速くなり、肉と野菜が渦に巻き込まれていく。
「そのぅ……僕がお嫁さんというより、どちらかと言えばテメノスさんが」
「あ、おいしそうなパンがあったので買って来たんですよ。シチューといっしょにいただきましょうね」
僕の言葉を遮ったテメノスさんはパンが入った紙袋をテーブルに置きに行ってしまった。そこでまた揶揄われているのだと気が付いて、鍋を焦がさないように火を弱めて蓋をした。
夕飯の準備を終え、シチューを並べなてテメノスさんが用意してくれたパンを切り分ける。テーブルを挟んで座って二人で食事をしながら、僕は今朝のことを伝えた。
「今朝は寝坊してしまってすみません。朝ごはん、すごくおいしかったです」
「あんな簡単なもので喜んでもらえると早起きして作った甲斐がありますね。君のシチューもおいしいですよ」
「ありがとうございます。テメノスさんにもっと喜んでもらえるよう、次に会う時までに腕を磨いておきますね!」
「ええ、楽しみにしています」
彼と過ごす、この時間が大好きだ。一緒に起きて、一緒に食事をして、一緒の時間を過ごして……。ああ……幸せだな……と噛み締めていると、食事を終えたテメノスさんが「ところで」と話を切り替えた。
「君、昼間に教会へ来ていましたよね?」
ぎくりと肩が跳ねそうになる。悪いことをしたわけではないが、声もかけず眺めるだけ眺めてあの場を去ってしまったので、なんとなくイエスと言いづらい。
「は、はい……気がついていたんですね、すみません。あの時は皆さんに挨拶もしないまま帰ってしまって……言い訳になってしまいますが、紙芝居をしているテメノスさんに、その……み、見惚れていました」
白状すると、向かいの席から楽しそうに笑う声が聞こえてきた。
「やっぱりクリック君だったんですね。紙芝居に見惚れる要素なんてあります?」
「紙芝居にというか、なんというか。上手く説明できないんですけど……村の人達に慕われているテメノスさんを見ていると、なんだか愛おしさが込み上げてきたと言いますか」
頭を捻りながら自分の中の答えを探そうとするが、どうにも見つからない。
あのとき見た、美しく穏やかな声で紙芝居を読み聞かせながら太陽の光を浴びる姿は、まさに……。
「母の、ような……」
言ってから深く後悔した。自分の発言の危うさに気が付いてテメノスさんを見る。恐ろしいほどに真顔だ。
「その、そういうわけではなくて!べ、べつに僕があなたに母性を求めているとかそういうわけでは……!」
「へえ、そうなの。ふぅーん……」
「テ……テメノスさぁん」
本当に彼を母の代わりにしているわけではない。
ただ、家族仲が複雑だったことと早くに家を出た僕は、両親からの愛というものをあまり知らない。だが昼間の慈愛に満ちたテメノスさんの姿を見て、幼い頃に家の窓辺で母親が絵本を読み聞かせてくれたことを思い出したのは事実だ。
あれが唯一と言っていいほどに両親との思い出は他に存在しない。父親は気難しい人であったし、母親も父の言いなりだった。だからこそ親から与えられ、そして僕から与えるはずだった“無償の愛”というものの対象を僕を最も大切にしてくれているテメノスさんへ重ねてしまったのかもしれない。
黙ったままだったテメノスさんは立ち上がると、まさに聖母の様ににこりと微笑んだ。
「まあ、いいです。どんな形であれ……私のことだけを見てくれているのなら」
二つの翡翠がこちらをじっと見つめている。
今なら、森の中で狙われた“獲物”の気持ちが分かる気がした。