あなたと共にある
あの時と同じ始まり方なのに、違うことが起ころうとしている。
なぜ同じことを繰り返しているのか。なぜこちらの名前を知っているのか。
目の前に佇んでいる青年は確かにクリックだった。しかし守ることができなかった彼が今、存在しているはずがない。
それに、キャスティはどこへ。辺りを見渡すが、他には村におかしな様子は見当たらない。
だから、これはきっと夢だ。それも、かなり悪い方の。目を瞑ってはやく目覚めるように願ったが、それは叶わなかった。
「一体どうしたんですか、テメノスさん」
こちらに向かって響く耳当たりの良いテノールに意識がぼやけていく。言いたいことが、伝えたいことが、たくさんあったはずだ。なのに彼が目の前にいるということだけですべてが真っ白に溶けていく。
あの日の夜明けとともに未練など捨て去ったはずだった。だが、実際はどうだ。まだ彼を引きずっている。夢の中に引っ張り出すほどに。
つい数日前にストームヘイルの墓の前で、はっきりと別れを告げたというのに。
気が付けば、テメノスはクリックへと手を伸ばして頬に触れていた。手の平で体温を確かめるようにゆっくり撫でる。すると彼は気持ちよさそうに目を細めながら笑みを纏い、うっとりとした心地よい声色で名前を呼んでくれた。
「テメノスさん、僕はずっと……あなたに触れてほしかったのかもしれません」
彼の言葉に手が止まる。自分にとって都合の良い言葉を無理やり彼に吐かせているようで、くらりと視界が歪んだ。
「……それは、どうして」
「相変わらずですね。分かっているくせに、僕に言わせようとするなんて」
頬に触れていた手をテメノスが引っ込めると、それを逃がさないようにクリックが握り返してきた。見上げると真っ直ぐにこちらを見つめる濁りのない視線とぶつかって、思わず顔を背けてしまう。
しばらくして、手に残っていた感覚が消えていった。顔を上げると、まるで本のページを捲っていくように目まぐるしく、次々と視界へ映る風景が変わっていきはじめた。
教皇の死。仲間たちとの出会い。夜明け。そして日が沈み、また朝がやって来る。
最後にはカナルブラインでのクリックとの再会へと繋がった。街中で彼に助けられて、ルーチーの遺体を発見して、ヴァドスを追い、聖堂機関本部へと帰還する彼を見送ったことを思い出す。
(そしてしばらくしてストームヘイルで彼と会い、それから……)
それから、彼はどうなった?
記憶が欠けていき、自分が何をして、何ができなかったのか、目の前の青年が誰なのかが分からなくなっていく。
辺りは静かなはずなのに雪崩のような大きな音が頭の中に響いて離れない。だけど、誰かが名前を呼んでくれている気がする。
そのとき、懐かしい背中が見えた気がした。あれは、ロイだ。5年前にいなくなってしまった彼をどうして引き留めることができなかったのだろう。どうして、助けることができなかったのだろう。また、同じ過ちを繰り返してしまった?
消えようとするロイの背中に向かって手を伸ばす。彼は振り返ってこちらの名前を呼んでいるようだ。だけど、聞こえない。届かない。彼の顔もインクでぐしゃぐしゃに塗りつぶされたように真っ黒で、どんな表情で名前を呼んでくれているのかが分からない。
(ロイ、わたしは君は救えなかった。誰も導けなかった。そして“彼”もまた、私のせいで――――!)
両手で耳を塞ぐが頭の中で響き続ける音は消えない。助けてと声に出したいのに息を吐く音しか出てこない。
誰か、誰か、誰か。誰もいない。いるはずがない。
だって、私は誰も救うことができなかったのだから。
「本当に、何を考えているのか分からない人」
頭を抱えていると吐き気がするような声色で、耳元でもう存在しないはずの女が囁く声が聞こえた気がした。
* * * * * * *
白に赤は残酷な程によく映える。真っ白な雪道に広がって渇いた深紅を見たときは、神なんていないのだとテメノスは本気で考えていた。
聖堂機関本部の前で冷たくなってしまったクリックに駆け寄ったとき、そこに倒れているのは自分であれば良かったのにと思った。彼は最期まで真実を見つけようとした結果、命の灯を失ってしまった。その前日に墓地で助けてくれたことも、夜に打ち明けてくれた胸の内に秘められた想いも、大切なもののはずなのにすぐさま忘れてしまいたかった。
(私のせいで危険に踏み込ませた。真実を言い訳に彼に甘えてしまった。その結果、大事なものを失った)
彼は命を落とす前にテメノスに「主を信じたいが、あなたも信じたい」と言った。あの時はその言葉が嬉しくて、いつもの皮肉なんてまったく出て来なくなって、素直に感謝を伝えることができた。だけど今は私のことなんて信じなければ良かったのにと思うばかりだ。
そうしたら、また太陽のような笑顔を見せてくれただろうか。時には優しい声で、時には呆れたような声で名前を呼んでくれただろうか。
あなたはきっと、すべてのものを疑ってかかるのでしょう。そう言ったクリックの声が木霊する。
未来のことなんてなにも分からない。信じるものなんて、なにも。
気が付けば、テメノスは静かに眠っているクリックの墓の前に立っていた。
墓石に積もった雪を手で払うと指の感覚が失われていったが別にかまわなかった。だってもう、触れたい温もりなど無いのだから。
「クリック君、私はね」
テメノスはやっと声を出せるようになったことを確認して、ぽつりと話し始めた。
「君に信じてもらえて嬉しかった。疑うことが仕事だなんて言っていましたが、私は出会った日から君のことを信じていたんですよ。君は、疑ってかかるでしょうけどね」
話していると口元が緩んだ。まるで目の前に彼がいるようで、誰もいないのにどんどん言葉が溢れて止まらなくなっていく。
「私はいつも守られてばかりでした。ロイにも、教皇にも、そして君にも。そして誰も守れなかった。情けないばかりで……」
「そんなことは、ありません」
たしかに彼の声が聞こえたきがした。慌てて振り返るが、当然誰もいない。また墓に向き直って、雪など構うことなく膝をついた。
「真実を掴んでも、仇を討っても、君は戻って来ません。謝ることもできない。君と同じ場所へ、行けたらいいのに……」
膝を抱えるようにしてその場に俯くと、暗かった視界に光が差した。雪が降っているのにあたたかい。
涙なんて、とうに枯れたものだと思っていた。