がちゃがちゃ

今すぐ愛を誓いなさい

 その日、クリック・ウェルズリーは恋に落ちた。それはもう疑う余地がないほどに深く、胸の奥を蝕み、苦しくなるほどに。
 恋に“落ちる”とはよく言ったもので、それは本当に前触れもなく唐突にやって来るのだ。いつもと変わらぬ風景に新しい色が差すような、変わり映えのしない朝食に未知の具材が追加されるような、興奮を湧き立てる何かが纏って離れない。それが心地よく感じる瞬間もあれば苦しみに変わる瞬間もある。不思議なものだと感じながら、クリックは恋を知ることとなった。

 ソリスティアが朝を取り戻してから、聖火教会と同様に聖堂機関も忙しない状態が続いていた。そうなるのは必然だった。聖職者として身を置いていた者が世界を危機に陥れていたとなれば、世間からの反発は避けられない。だがこんな状況であるからこそ、以前よりも気を引き締めて神の剣としての務めを果たすまでだろう。
 聖火とはただの教えや神への信仰などではない。それは誰の心にも存在するものだと、クリックは書庫で探し物をしているテメノスの姿を眺めながら改めて感じていた。
 
 今日、クリックは久しぶりにテメノスと顔を合わせた。どうやら副機関長となったオルトに呼ばれて聖堂機関本部へ訪れていたらしい。そのまま書庫への案内を頼まれたクリックは二つ返事で承諾し、彼の探し物を手伝うことにした。
「クリック君、付き合ってもらってすみません。もうすぐで終わりますから」
 せっかくストームヘイルまで来たのだからと、テメノスはここにしか置かれていない本を探しているらしい。埃をかぶっている様々な書物をかき分けながら、棚の上段へ手を伸ばしている。
「いえ、僕は大丈夫なのでお気になさらず」
 テメノスから本のタイトルは聞いているので、それが置かれていそうな場所を一緒に探す。カテゴリを考えるに確かに上段にあるはずだが、目線的に探しにくい。自分もテメノスも背が低い方ではないが、本棚の高さを考えると踏み台があった方が探しやすそうだ。
 そしてクリックが書庫内にある踏み台を取りに向かおうとしているとテメノスが「あっ」と声を上げた。
「ありました。あれですね」
 クリックが振り返ると、テメノスが手を伸ばした指の先に目当ての本が配架されていた。少しだけ手が届かないのか背伸びをして棚から抜き取ろうとしている。どうやらかなり古い本のようで、しばらく誰も触らず放置されていたものらしい。押し込まれるように収納されているため、抜き取るには力が要りそうだ。
 テメノスがやっと目当ての本を手に取った瞬間、勢い余って両隣に並べられていた数冊の本も一緒に棚から抜けてしまった。そのまま彼に向かって、ばさばさと本が流れ落ちようとしている。
「……テメノスさん!」
 その瞬間を見たクリックは急いで彼を抱きかかえた。何冊か頭上に落ちてきたが大半は鎧に当たったのでさほどダメージは無い。
 雪崩がおさまり安堵したクリックは、腕の中のテメノスに安否を確認した。
「テメノスさん、お怪我はありませんか?」
 無言のままだったテメノスはクリックの声に反応するかのように頷いた。そして小さく「大丈夫です」と答え、クリックから離れて距離を取る。
「すみません、結局迷惑をかけてしまいました。本は私が片付けておきますから、君はもう戻ってください」
 どこか余所余所しい声色に違和感を覚えつつも、クリックは首を横に振る。
「そんな、僕は気にしていませんよ。本も僕が片付けますから……」
「いいえ。それに、その……ちょっと一人になりたいんです」
 こちらに背を向けてしまったテメノスには、これ以上譲る気は無さそうだ。クリックは頭を下げて、彼の言うとおりに書庫の入口へと向かった。
 部屋を出る前に一瞬だけ振り返ると、床に散らばった本を片付けようとテメノスがその場にしゃがんでいた。その横顔は少し戸惑った様子で、耳と頬がほんのりと赤い。
 なんてことない表情だ。なのに、どうしてかそれに目を奪われてしまったクリックは首を振って、その場を後にした。

 * * * * * * *

 そして、真夜中の寄宿舎のベッドの中でクリックはそれが恋だったのだと自覚した。思えば、出会ってからずっとテメノスは心の中にいる気がする。迷いがなく、己の信念を貫き、いつも前だけを見ている姿はクリックにとってまさに光だった。無駄の無い美しい振る舞いに魅了されたこともある。どうして今まで気が付かなかったのか不思議なくらいだ。
 あの時に抱きしめたテメノスを思い出す。一瞬の出来事だったというのに鮮明に記憶に残っているのだから不思議だ。以前から細い人だとは思っていたが、実際は想像以上に華奢だった。杖を振り回している姿を知っているのでそれなりに力もあるはずで小柄なわけでもないのに、どうしてか守らなければならないという気持ちだけで動いてしまった。彼が客人だからだとか異端審問官だからとか、肩書は関係ない。ただ傷ついて欲しくなかった。それだけだ。
 
 そのまま穏やかな眠りについたクリックは夢を見た。真っ白な空間に、自分だけが佇んでいる。
 何もない空間を歩き回っていると、遠くに人影が見えた。そちらに向かって走ると、人影はゆっくりと振り返ってこう言った。
「クリック君」
 その人はテメノスだった。驚いたクリックはその場で立ち止まる。そうしているとテメノスから近づいてきた。どうしてか動けないクリックは、こちらに向かって手を伸ばしているテメノスをただ見つめることしかできない。
「クリック君。私だけの子羊君」
 高過ぎず低すぎない心地よい声で名前を呼ばれて鼓動が高鳴る。テメノスは目を細め、愛おしそうにクリックの頬を撫でている。指の感触がやたらとリアルで、クリックは自分の中の何かが沸き起こってくるのを感じた。
 
 真っ白だった空間はいつの間にか黒く淀んでいた。夢の中のテメノスはクリックに抱き着いてきて、そのまま背後に二人して倒れ込んでしまう。背中が床に触れても痛くは無かった。そこでこれが夢だと思い出したが、目の前のテメノスは相変わらず現実と変わらぬ姿をしている。
 そしてクリックの上に乗るようにして、テメノスはふわりと笑う。ゆっくりと顔が近づき、お互いの唇が触れようとした瞬間――――。
「――――うわぁッ!」
 目を覚ましたクリックは慌てて体を起こした。見てはいけない夢を見てしまった罪悪感で呼吸が乱れている。そして胸を押さえながら落ち着きを取り戻し、違和感を覚えながら恐る恐る分厚い布団を捲った。そこに見えたものへ肩を落とし、頭を抱える。
(夢の中とはいえ、あの人を……テメノスさんを汚してしまった。僕は……最低だ……)