がちゃがちゃ

静寂に茹だる

 あれから一ヵ月が過ぎた。ベジータは悟空と顔を合わせることなく普段通りに過ごしている。幸いなことに悟空から会いに来ることはなかった。
 何もかも忘れていれば余計なことは考えなくてすむのだと自分に言い聞かせながら、今し方ブルマが淹れてくれていたコーヒーのカップに口を付けた。
 
 今日は大事なプレゼンがあるのだとブルマは朝から慌ただしく出かける準備をしている。もう出発するだろうという時に、コーヒーを飲むベジータの顔を見るなり「そう言えば」と呟いた。
「最近、孫くん見ないわね。ちょっと前までよく来てたのに」
 久しぶりに訊いた名前に思わず眉を顰めてしまう。その様子を見たブルマは肩をすくめると、ショルダーバッグを肩にかけこちらに背を向けた。
「ああ見えて、孫くんって結構しつこいわよ」
「何の話だ」
 すらりと伸びる妻の背に声をかけると肩越しに目を細められる。そして、たじろぐベジータに向かって笑ってみせるとバッグを肩に抱えなおしながら玄関へと向かって行った。
「まったく、どっちも本当に口下手なんだから……あ、孫くんはちょっと違うのかな?」
 何かを知っていそうなブルマに視線を送る。それに気が付いたのかブルマは立ち止まり背を向けたまま話を続けた。
「よく知らないけどさ、あんたたちを見てれば何かあったってことぐらい分かるわよ。ま、なんでもいいけど!」
 言いたいことだけ言い残し、ブルマは振り返ることなく自宅を後にした。その姿を見送ったベジータは勘が鋭い妻に感心しつつも今はそれどころではないと窓の外を見る。コーヒーを一口飲むといつの間にか冷めてしまっていてテーブルにカップを置いた。
 あの日と同じような曇天に嫌気が差す。どこか胸騒ぎを覚えつつ窓の外へ視線を送っていると嫌な予感は当たってしまい、すっかり慣れ切ってしまった気を感じた瞬間には目の前に思い描いていた男が現れていた。
 
「よっ!」
 軽快な挨拶が今は妙に耳障りとなり、ベジータは訝しむ様に悟空の声に小さく息を吐き腕を組む。
 久しぶりに見た顔は以前と変わらぬままだった。光に満ちた両の目がはっきりとこちらを捉えており、もう悟空の中では何も無かったことになっているのではと思索にふける。
「何の用だ。今日はブルマもトランクスもいないぞ」
「ああ、そうだろうな」
 気を感じることに長けた同胞はそんなことは承知の上でここに来ているだろうことは分かっている。つまりは用があるのは自分なのだと認めたくはなかったのかもしれない。
 悟空はその場で軽く背筋を伸ばすと、迷うことなく組まれたままの無防備な手を取った。
「一人で修行してると体がなまっちまいそうで、久しぶりに組手したくなってさ。一緒に来るだろ?」
 掴まれた手に力が込められた気がして、ベジータは首を振った。
「……何を考えている?」
「何って、どういうことだ?」
 本当に分からないとでも言いたげにぽかんとした表情で首を傾げている。惚けるなと一蹴してやりたいのに、「ほら行こうぜ」と無邪気な笑顔を向けられ口淀んでしまった。
 悟空の背後にある大きな窓から外がよく見える。曇天はさらに広がり、見ているだけで陽の光が無い景色に肌寒さを感じた。こんな日に一体どこへ行こうと言うのか。だというのに見上げた男の表情は晴れ晴れとしており、掴まれた腕の指先から伝わる体温はあたたかい。それを少し分けてほしいような、引き剥がしてほしいような、もどかしい感情に駆られる。

「良いだろう、貴様に付き合ってやる」
 言えば、悟空の顔はぱっと明るくなり額に二本の指を当てていた。どこへ向かうつもりなのか知らないが、流されているということは理解している。
 光に溶けていく最中に悟空が目を細めたのが見えた気がして、本当にこれで良かったのだろうかと自分の浅慮な行動に迷いを抱いていた。

 * * * * * * * *

 辿り着いたのは、一か月前のあの日と同じ場所だった。近くに大きな滝と川辺が広がる岩場は超越した力を持つ二人が修行をするのには適しているが、記憶が呼び起こされそうでベジータは眉を顰める。そんなベジータの気を知ってか知らずか悟空は軽くストレッチをすると空を見上げた。
「ああー、天気悪くなってるなぁ」
 そんなこと分かっていただろうと言いたかったが、今口を開けば余計なことまで喋ってしまいそうで口を噤む。同じように見上げれば確かに先程よりも薄暗くなった空からは今にも雨が降り出しそうだった。
「じゃあ、早速はじめようぜ!」
 構える悟空を前にするとつい口元が緩みそうになる。結局のところ自分もこの勝負を待ち望んでいたのだと認めてしまえば心が軽くなった。
 同じ血を宿す同胞が戦いを求めていることに嬉しくなるのはサイヤ人の性か。同じように構えると、ぎらぎらと燃えるような熱を宿す視線に射抜かれた。
 湿った地面を駆け、ヒュッと過ぎ去る音の間を潜り抜けながら攻撃を繰り出していく。攻防を繰り返すうちに悟空が地を蹴り上げ宙に浮き、空中で光と音が舞った。
 ああ、これだ。求めていたものを手にした気がして胸の奥が熱くなる。欲望を満たす様に戦いを続ければきっと自分を取り戻せる。気まぐれの様な感情に惑わされてはいけない。悟空の後に続き空中で構え直せば、喉が潤っていくように満たされていった。
 
 ベジータの空中での蹴りがヒットし、その衝撃で悟空は近くの滝に吹っ飛ばされていった。
 気を消されてしまっては目視で居場所を確認するほかない。どこに行ったのか探るために滝つぼまでやって来ると、背後から水しぶきが上がった。
 振り返った時には既に遅く、ずぶ濡れの悟空が放った気弾を避ける為にベジータは防御の体勢をとる。真正面からの攻撃は防ぐことが出来たが、気に押され川の中に突っ込んでしまった。思っていたよりも深い川底に視界が淀む。水の中では互いの位置を把握しづらいがチャンスでもある。
 悟空の不意を突こうと川底を蹴り上げ一気に川面に飛び出したが、それを待っていたかのように悟空の蹴りが繰り出された。その足を掴み地面で叩きつけるように投げる。背中から落ちた悟空は小さく呻きながら上半身を起こすだけでそれ以上動かなかった。
 ベジータがその前に降り立つと、悟空は大の字に倒れたまま「あー……」と曇天を見上げた。
「どうした、もうおしまいか?」
 ベジータの言葉には何も返さず、悟空は顔だけをこちらに向ける。そして空に向かって指さしたかと思えば、ぽつぽつと雨が降り始め土の匂いが広がった。
「あーあ、降り始めちまったな」
 体を起こし立ち上がった悟空が犬のように頭を左右に振り水を飛ばす。額に垂れた前髪が鬱陶しいのかそれをかき上げる様子を見て、ベジータはなんとなくその様子から視線が離せなかった。
 戦意を失っている目を見て、今日はここまでかと空を見る。雨はどんどん強まり、音を立てるほどになっていた。
「ベジータの蹴り、効いたぜ。もっと続けたいけど――」
 どうする、とこちらに委ねてくる男に腹が立つ。やはりそういうことかとベジータが舌打ちをすれば、乾いた笑いが聞こえてきた。毛先から雨が滴り頬を伝っていき、どんどん濡れていく体に肌が粟立つ。
 否定すればいいのに。拒絶すればいいのに。それが出来ない自分がいる。認めたくはないが、ずっと欲していたのだと気づかされる。
 とにかく温まりたい。冷えた体をどうにかしてほしい。目の前の男と視線が交わった時には、すべてが伝わっていた気がした。