誰がために
今、目の前に広がるイシの村の景色は以前見たものよりもずっと穏やかだった。頬を撫でる風が心地よくて息を吸う。小鳥のさえずりに耳を傾ける日なんて、いつぶりだろうか。
「カミュ!」
名前を呼ばれて振り返る。そこには息を切らして、顔を真っ赤にして、誰が見ても緊張しているのだなと分かる姿の勇者様がいた。
近寄ると自然と手がのびていき、ずっと柔らかそうだなと思っていた頬に触れていた。それは想像通りの感触で、ぷに、という効果音が似合うほどに張り付いた。しかし目の前の男は更に顔を赤くして一歩後ずさってしまう。
そしてコホンとわざとらしく咳払いをひとつ。一体何を言い出すのかと思えばと待っていると、突然両肩をがっしりと掴まれた。
「カミュ、ぼくと幸せになって!」
あの情熱的なプロポーズ(だと少なくともオレは思っている)から何日が経ったのか。それとも数時間しか経っていないのか。時間の感覚が分からない。
いつの間にかオレとイレブンは一緒に住むことになっていて、この家の住人であるイレブンの母親が気を遣って二人きりにまでしてくれている。いったい、どうなっているんだ。
イレブンとは、ただ「幸せになろう」とだけ告げられた状態が続いている。好きだとか愛しているだとか、そんな分かりやすい言葉を貰ったわけでもない。体の関係を持ったわけでもない。随分と曖昧な関係だと思う。だけどオレだってイレブンに何かを伝えたわけではない。ただ「もちろん」とだけ返した。それだけだ。それでもイレブンは満足そうに微笑んで、オレの手を包み込むように握って、優しい声で「ぜったいに君を幸せにするから」と言ってくれた。それだけで充分だった。だって、世界に愛された勇者様からこれ以上を望むだなんて、欲張りではないか。
二人で過ごしているときに、イレブンから恋愛についての話題を振られたことがある。今までそんな話を仲間内でさえしたことがなかったので驚いたが、オレは正直に今まで他人と深い仲になったことは無いことを話した。性別問わず物好きな連中が近づいてくることがあったが、相手にしたことも特別な感情を抱いたことなど無い。だから素直に「人を好きになったのはお前がはじめてだ」とまで伝えると、イレブンは照れ臭そうに笑っていた。そしてオレはここまで話したのだからお前も聞かせろと言えば、初恋について話し始めた。
イレブンは言うには、初恋は6歳のときらしい。それを聞いたオレは頭を強く殴られたようなショックを受けていた。べつにオレが初恋の相手でなくても構わないし出会う前までの恋愛事情に口を挟む権利もないのだが、その相手が誰なのかが気になった。てっきりあの幼馴染の子だと思ったが、どうやら違うらしい。はじめにイレブンの心を掴んだ人物が誰なのかが気になったが、詳しく聞こうとしても「子どもの頃のことだから」とそれ以上は話してくれなかった。
それからしばらく経ったある日、イシの村の自宅に一人でいると朝から出かけていたイレブンが帰ってきた。少し強張った表情をしていたので疲れているのかと思い、今日はもう休むかと訊いたがどうやら違うらしい。それならばと、オレはイレブンを散歩に誘った。この村に住むようになってから、神の岩に行ってみたいと思っていた。村人から話を聞いて、ずっと気になっていたのだ。
それから二人で神の岩へと向かった。道中で、イレブンは成人の儀式のために神の岩の頂上まで登ったことがあると聞いた。なんでもここには大地の精霊が宿っているらしい。景色が良いだけではなく、神聖な場所だということが分かる。
しばらくして頂上に辿り着いた。話に聞いていた通りの絶景に圧倒されたオレは気分が上がってしまい、必要以上にイレブンに話しかけていた気がする。そして辺りを見渡して、手すりなど一切ない崖に視線が奪われた。デルカダールから脱獄した時の記憶と重なってしまったのだ。逃げ場を失ったあの時のオレは、本来なら絶望していただろう。だけど隣には運命の勇者がいた。それを信じた自分は間違ってはいなかったし、崖を飛び降りた瞬間だって、ひとつも怖くなかった。きっと、あの出会いが無ければ、オレは――――。
「なあ、イレブン」
意気揚々と声をかけるオレに違和感を抱いたのか、イレブンは不思議そうなをしている。
「ここから飛び降りて今度も助かるか、賭けてみないか?」
オレの言葉にイレブンは驚いたのか、目を大きく見開いた。二人きりのこの空間で、はしゃぐなと言う方が無理がある。軽くジャンプして飛び降りる振りをして、慌てるイレブンに「冗談だ」と笑ってやろう。そう思っていただけだ。
なのに、崖際に降り立って「冗談だ」と言った瞬間に突風が起こった。正面からそれを受けたオレの体はバランスが崩れて、崖下に向かって倒れていく。近かった筈のイレブンの姿がゆっくりと遠のいていった。
ああ、馬鹿なことしちまったな。そんなことを考えながらも恐怖など少しも感じなかったのは、いつものように視線の先に勇者がいたからだ。