がちゃがちゃ

乖離点

 王泥喜は自宅とはまったく違う浴室に足を踏み入れ、頭から熱いシャワーを浴びている。冷えていた体があたたまっていくと記憶も少しずつ戻って来て、ここに来るまでのことを思い返してみた。
 すると牙琉の家のソファに寝かされた後、服を着替えさせられていた時の記憶がぼんやりと蘇ってきた。それが恥ずかしいと言うだけならまだ良かったのだが、徐々に他のことまで思い出してしまったのだ。
 記憶の中では、着替えた後にソファへ横になっている王泥喜に熱が無いかを確認するためなのか牙琉が額に手を当てている。意識が朦朧としている中でも冷たい手の平が気持ち良くて、自分はその手を握ってしまった……気がするのだ。
 牙琉は驚いた様子だったが、それを振り払うことはしなかった。彼の手を握っているとなんだか甘いようないい匂いがしてきて、もっと近くで感じたくて、オレはそのまま……。

 そこで記憶が途切れている。あの時に自分がなにをしてしまったのかだけが思い出せず、シャワーを浴びながら頭を抱え込んでしまう。今ならはっきりとしない発言を繰り返す証人の気持ちが痛いほどわかる。
 何か失礼なことはしていないかだけが不安で、シャワーを終えた王泥喜はバスルームから出るとやはり大股でリビングへと戻った。
「あのっ牙琉検事!」
「あっ!駄目じゃないかおデコくん、髪が濡れたまま出てきたら」
 こちらの声を遮って近づいてきた牙琉に持っていたバスタオルを奪われ、乾ききっていない髪をがしがしと拭かれてしまう。距離の近さに牙琉から漂うボディソープの良い香りがしてきて、心臓がばくばくと忙しなく脈打っている。
 そのまま大人しくしていると、ふいに顔を覗き込まれた王泥喜は思わず息を呑んだ。
「なんだか新鮮だね、おデコが出てないおデコくんなんて」
「ほっといてください……」
 ふふ、と笑う牙琉に目にかかっている髪をかきあげられた。むき出しになった額を満足そうに見つめた後「やっぱりおデコくんはこうだよねぇ」なんて呟いている。
 あとは自分で乾かせと告げられ、牙琉はソファへと戻っていった。それに続く様に着いて行き、シャワーを浴びながらずっと気になっていたことを訊ねた。
「あの、オレ……もしかして、ここで寝ている時に検事になにかとんでもないことしちゃってたりしますか」
 テーブルに広げられている雑誌のページを捲りながら、牙琉が顔を上げる。
「……とんでもないことって、例えば、どんなこと?」
「例えば、その」
「はっきりしないね。いつもの威勢はどうしたのさ」
 雑誌を閉じた牙琉は立ち上がると王泥喜の前にやってきて、いつものように屈んで顔を覗き込んできた。その余裕そうな表情を何度も見てきた。なのに、いつもと違って見えるのは何故なのか。
 そして何かを見透かしているような両の瞳の奥に映っている自分を見て、確認した。無意識とは恐ろしいものだ。今更誤解だと言い訳しても、きっと遅いのだろう。
 だとすれば。

「検事。オレがアンタにやったこと、再現してくれませんか」
 自分が行ったことの証拠品など何もない。ならば目撃者に、当事者に、語らせるしかないのではないだろうか。それがいつもの法廷でのルールだ。
 その意図が通じたのか、牙琉は少し驚いたそぶりを見せた後に目を細めながら王泥喜の胸元を掴んだ。ほんの少しだけ顔が近づいて、息が苦しくなっていく。
「おデコくんって、意外と意気地なしなんだ?」
「そうですよ」
「ふうん……」
 自分で言っておきながら、ゆっくりと近づいてくる彫刻のように整った顔から目を反らしたくなった。
 目を閉じないまま突っ立っていると、微かな記憶の中と同じ柔らかい唇が触れてきた。それだけだったはずなのに、王泥喜はそのまま背伸びをした。一気に二人の距離が縮まって、触れていただけだった唇が深く重なる。勢いに任せて無理やり舌をねじ込んでみたが、牙琉は驚かなかった。それどころか自然体のまま受け入れてきて、そのまま優しく抱き留められてしまう。それにどうしてか腹が立ち、王泥喜は近くの壁に牙琉の背を押し付けた。
「……ッなんで、逃げないんです、か」
 舌を絡ませながら吐き出される言葉は途切れ途切れで、だけど何を伝えたいかはきちんと分かっている。
 何度も角度を変えながらキスをした。熱を渡して渡されて、こんなきれいな部屋には似つかわしくない音が響いている。
「嫌、じゃないから……、は、理由になるかい?」
 牙琉の余裕そうな声と表情にさらに腹が立つ。まるでなんでもないと言いたげな口ぶりに、その胸の内を暴きたくなった。
「アンタは、どこまでオレを馬鹿にすれば気が済むんですか」
「君を馬鹿にしたことなんかないよ」
「嘘、嘘だ。今だって、オレが一体、どんな想いで……」
 そこまで話した後、王泥喜は慌てて口を噤んだ。言ってはいけないことを口走った気がして目を反らしたが、今度はそれを牙琉が許してくれなかった。
 綺麗な手で両頬を包まれ、無理やり正面を向かされる。
「どんな想いだっていうのさ。さっさと白状しなよ」
 黙ったままでいると、ねえ、と頬を撫でられた。長い指が頬から首筋までを辿り、体が強張っていく。
「君が言わないから、言っちゃうけどさ」
 ゆっくりと手が離れて行き、それを名残惜しく感じていると髪をかき上げられて剥き出しになった額へと柔らかいものが触れた。
「こんなに誰かを欲しいと思ったのは、生まれて初めてだよ」

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