がちゃがちゃ

乖離点

 王泥喜が事務所から出て牙琉の車の助手席に座った直後、ちょうど雨が強まってきた。送ってもらうことへのお礼と自宅の場所を伝えている途中で雨音はさらに大きくなり、窓からの視界が悪くなっていく。
 この悪天候の中でも車の通りは多く、信号に捕まっている時に牙琉が話しかけてきた。
「ラッキーだったね、おデコくん。僕が来なかったら君はこんな土砂降りのなかを自転車で帰ったのかい?」
「いや、ここまで降ってたらさすがにタクシーで帰りますよ……風邪引きたくないし」
「へえ。おデコくんも風邪って引くんだ」
 相変わらずこちらを揶揄うような口ぶりに王泥喜は顔を顰める。
「もしかして、検事はオレをおもちゃか何かだと思ってませんか?」
「そうだねえ、面白い男だと思ってるよ。君みたいな弁護士ははじめてだ。前にも、言ったけどね」
 はじめて牙琉のオフィスへ訪れた時のことを話しているのだろう。
 あの時の裁判での証拠品や情報をお互い話してしまった事は、未だに正しかったのかどうか分からない。ただ、結果として真実に近づくことは出来た。
 正義なんて誰も分からない。だが牙琉は王泥喜に対してフェアに向き合った。彼が検事を目指した理由がそこにあったからだろうが、もっと他にも意味があったのではないかと今になって考えてしまう。
 これまで起こったことを思い返しながら、王泥喜がぼんやりと口を開いた。
「……検事は、オレを怨んでいないんですか」
 なるべく声が震えないように話したつもりだが、果たしてうまくできているだろうか。
「どうして、そう思うんだい」
 牙琉の繊細な声が車内に響く。それは雨音に消されてしまいそうな程に細く、小さく、丁寧な運転と相まってまるで彼が奏でる美しいバラードのようだった。
「オレは、結果としてあなたの家族と仲間を奪ったんです。今でもあれが間違っていたとは思っていません、真実の為に検事だって同じことを望んだはずです。でも同時に、オレは検事を……不幸にしてしまったように思うんです」
「つまり君は……今の僕が不幸だと思ってるんだ」
「そ、そういうわけでは!」
 慌てて言い返すと、先程よりは明るい笑い声が隣から聞こえてきた。
「ふふ、分かってるよ。……あのね、おデコくん」
 まるで自分の顔のように赤くなったり青くなったりする信号を通り過ぎていく。淀んだ雲はさらに黒くなっていき、ランプの色はどんどん鮮明になっていった。
「この7年の間、確かに僕から大切なものがどんどん失われていった。いつからか迷うことも多くなった。ずっと僕の中で引っかかっていた何かが大きくなって、何も信じられなくなりそうだった。だけどね」
 何度目かの赤い信号に車がゆっくり止まった。横断歩道を渡っていく人々は、皆忙しなく足早にどこかへ向かっている。
「それと同時に、きみは苦しんでいた僕に真実を見つけてくれたじゃないか」
「……あれは、オレだけじゃ無理だったんです」
 会話はそこで終わってしまった。そのまま窓の外を眺めていると自分と同じように傘を持っていない人が数人か歩いており、誰もが近くにある駅の方向に向かって走っている。
 すると、その中の一人が横断歩道を渡って少し進んだ先で雨に足を滑らせて派手に転んでいた。転んだのはまだ小学生ぐらいの少年で、よほど痛むのか倒れたまま起き上がろうとしない。さらには横を通りかかる通行人は皆見えていないのか少年を素通りしていく。
 その瞬間、考える間もなく王泥喜は助手席のドアに手をかけていた。
「おデコくん……?」
 それに気が付き驚いている牙琉が何をするつもりなのかと問う前に、濡れることも構わず車から飛び出していたのだった。

 王泥喜は倒れたままの少年まで向かい立ち上がらせたあと雨に濡れない場所まで連れて行き、怪我の様子を確かめた。幸いなことに出血はしておらず擦りむいただけのようだった。
 簡単に手当てをしてから屈んで目線を合わせると、少年は静かにこちらを見つめてきた。
「泣かなかったんだな、偉いぞ。家に帰れそうかい?」
 笑顔を取り戻した少年は元気よく頷く。そうしていると少年の帰りを心配したらしい母親がちょうど迎えに来たようで、ひとしきり感謝を述べられた。二人で傘を差して手を繋ぎ帰っていく様子を見送っていると、どこかに車を停めてきた牙琉が呆れた様子でやって来た。
「まったく、駐車代を君に請求したって良いんだぞ」
「うっ、すみません……」
「冗談だよ」
 肩をすくめた牙琉が困ったように笑っている。牙琉の差している傘に入れてもらい車まで戻っている途中で、彼は差している傘をこちらに大きく傾けた。
「ほら、せっかく乗せてあげたってのにずぶ濡れじゃないか。おデコくんはいつもいつも……、おデコくん?」
 気が付けば、随分と体も頭も重くなっていた。全速力で急な斜面を駆け上がった時のように息が上がり、喉の奥が熱い。
 王泥喜の顔色が悪いことと荒くなった呼吸に気が付いた牙琉が大丈夫なのかと訊いてきたので、まるでうわ言のように同じ言葉を繰り返してしまう。
「大丈夫、だいじょうぶですから……オレは、いつだって、大丈夫……で……」
 ぐらりと視界が傾いていく。倒れる寸前で牙琉が支えてくれたのか、なんとか地面に頭をぶつけることはなかった。

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