乖離点
人は嘘をつく生き物だ。
自分も他人も嘘をつく。それはもう自然と、穏やかに。嘘も方便だなんて、誰が言い始めたのだろう。
その嘘の意味を追求して辿り着く先はいつだって真実だったが、それは決して正義とは限らない。だけど裁きの庭で求められるものは決まっていて、自分だってそうやってきたじゃないかと必死に言い聞かせて、だけど正義だなんて烏滸がましい。その言葉を軽々しく口にしていいものではないと思ったのは、一体いつからだったか。
師を二度も証言台に立たせ、そして失い、王泥喜法介は以前よりも仕事に打ち込むようになっていった。どんな小さな依頼も、みぬきの可愛らしいおねだりにも、成歩堂の無茶苦茶な頼み事にも、真摯に向き合った。
もともと不真面目なわけではなかったが、周囲が心配するほどには疲労が外見に現れ始めた頃には大声で「大丈夫です」と返す頻度が高くなっていた。
「オドロキさん気が付いてますか。今日だけで10回は大丈夫ですって言ってますよ」
ある日の事務所でのみぬきの言葉に、王泥喜は向かい合っている資料から目線を移さぬまま「ふーん」とだけ返事をした。それが不服らしい様子のみぬきは眉を吊り上げながら腰に手を当て、いかにも怒っているのだとポーズで表現しながら王泥喜に向かって声を上げた。
「もう、オドロキさん!みぬきが何を言いたいか分かってないんですか?」
「分かんないよ、ちゃんと言ってくれなきゃ」
みぬきは、王泥喜の返事に困ったように眉を下げている。そして近々ビビルバーで披露する予定の新作の練習から手を止め、ソファに座っている王泥喜の横に腰を降ろした。
「心配してるんですよ、オドロキさんのこと。もちろんパパだって」
「成歩堂さんが、ねぇ……」
そこで王泥喜はやっと資料から顔を上げた。隣には心配そうにこちらを見上げているみぬきがいて、少しだけ胸の奥が痛んだ気がした。
「オドロキさんっていつも元気いっぱいです!って感じだから。たまには肩の力を抜いたってバチなんか当たりませんよ!」
「別にオレは疲れてなんか……」
「嘘ついたって、みぬきにはお見通しですよ!」
そこで王泥喜は彼女が持つ特殊な力について思い出した。自分も同じものを持っているというのに時々忘れそうになってしまう。
そしてじっとこちらを見上げたまま動かない少女にため息をつき、参ったと降参ポーズを取った。
「分かったよ。……確かに、最近は根を詰め過ぎてたかもな」
王泥喜はソファから立ち上がると伸びをした。
背筋を伸ばしながら目に入った大きな窓に視線を移すといつの間にか日は落ちかけていて、空模様も怪しくなっていた。天気予報では一日晴れだと言っていたので傘を持っていないなと考えながら、再び腰を降ろしてテーブルの上に散らかったままの資料の整理を再開する。
「そうですよぉ!この間だって猫さんを探してほしいって依頼されて、関係ない別の迷い猫まで探しちゃって感謝されてたじゃないですか!」
「あれは偶然と言うか……。それに、結果良い方向に行ったわけだし」
「オドロキさんって、案外オヒトヨシですよねぇ」
案外ってなんだよ。そう突っ込もうとしたとき事務所の扉が静かに開かれた。二人が同時にその方向を向くと、帰宅した成歩堂がいつもの掴みどころのない笑顔で立っていた。
「ただいま」
「パパ、おかえりなさい!」
みぬきがぱたぱたと足音を立てながら父親へと駆け寄っている。その様子を尻目に王泥喜も「おかえりなさい」と言いながら成歩堂の姿に注視した。肩が少し濡れていることに気が付いて、王泥喜は再び窓の外を見る。いつの間にか小雨が降り始めており、つい顔を顰めてしまう。その様子に気が付いたらしい成歩堂も窓の外を眺めている。
「ああ、このままだと雨が強くなりそうだからもう帰った方がいいよ。傘、持ってきてないんだろ?」
王泥喜は成歩堂の言葉に素直に頷きながら、事務所の入り口にある傘立てを指さした。そこには一本だけ、透明のビニール傘が刺さっている。
「ちなみに、傘を貸してもらえたりなんかは……」
「あれを君に貸すと、僕とみぬきが濡れてしまうね?」
それはそうだと、王泥喜は頷いた。分かってはいたが仕方がない。大降りになる前に帰宅してしまおうと準備をはじめていると、再び入口のドアが開く音がした。三人が同時に振り返るとそこには予期していない来訪者が立っており、一斉に「あっ」と声が重なった。
「牙琉検事……」
王泥喜が名前を呼ぶと、来訪者は「やあ」と爽やかに挨拶をしてきた。この男を見ると王泥喜は嫌でも過去を思い出す。師の顔、嘘、そして証言。ずっと眩く見えていた尊敬する師の姿は今では闇に覆われているが、それを晴らす様な存在が弟で、同時に光である気がする。
この男が立っている場所はいつだって明るい。薄暗いライブ会場でも、天気の悪い日の室内でも。そしてお世辞にも広いとはいえないこの事務所には似合わない光が差し込んだようで、王泥喜は無意識に一歩後ずさった。しかし牙琉は気にしていないのかそのまま王泥喜に近づくと手に持っていた茶封筒を押し付けるように差し出し、そしてみぬきには小さな白い箱を渡していた。
「おデコくんにはこっちで、お嬢さんにはこっちだね」
「わあ、プリンだぁ!」
みぬきは受け取ったプリンのお礼をしている。王泥喜も自分が受け取った茶封筒の中身の確認をすると、そこには可愛らしい猫の写真がたくさん入っていた。
「……検事、これなんですか?」
王泥喜が写真を一枚取り出すと、すぐにみぬきが「この間オドロキさんと一緒に見つけた猫さんじゃないですか!」と声を上げた。
「君たちが探していた猫の飼い主がね、検事局の人間なんだよ。たまたま本人とその話になって、その飼い主さんは愛猫探しの為に刷り過ぎた写真を君に渡したいって言うからさ、届けに来たんだよ」
王泥喜は手に取った写真を茶封筒ごとみぬきに渡しながら、不思議そうに牙琉を見つめる。
「でも、なんで写真なんか。もう見つかってるから必要無いのに……」
「随分とこの猫を可愛いと褒めていたらしいじゃないか。だからじゃないかな。飼い主という人種はね、可愛い我が子が褒められたらおすそ分けしたくなるものなんだよ」
「そう、なんですか」
可愛いと褒めちぎっていたのは自分ではなくみぬきだと伝えようと思ったが、牙琉の表情でその辺の事情は分かっているのだと察して王泥喜は口を閉じる。
牙琉はその様子にやれやれと肩をすくめると、先程の王泥喜と同じように窓の外を眺めはじめた。
「僕も写真を押し付けられた手前、返せなくてね。お嬢さんは喜んでいるようだし良かったよ」
「はあ」
みぬきは受け取った写真を眺めてにこにこと微笑んでいる。写真はどれも映りが良いもので、そのままポストカードにできてしまいそうだった。そんなものを貰ったのだから、確かに悪い気はしない。
「それじゃあ用も済んだし僕は帰るかな。今にも空が泣きだしそうだしね」
またこの人はおかしな表現をしているなと王泥喜が頭の片隅で考えていると、出て行こうとする検事を成歩堂が呼び止めた。
「待ってよ。ついでに一つ、お願いしていいかな?」
「……内容によっては」
振り返った牙琉は表情こそは爽やかに微笑んでいるが、成歩堂をまっすぐ見ようとはしていない。牙琉が成歩堂へ抱えている蟠りが解けるには、まだまだ時間がかかりそうであることが目に見えている。
そんな二人の様子を見ながら、王泥喜は内心で冷や冷やとしていた。
「傘を持っていない哀れなオドロキくんを送ってもらえないかな。車で来ているんだろ?」
成歩堂の要望に牙琉は顎に手を添えてわざとらしく考えている素振りを見せている。
「そうだね、おデコくんの護送ってことなら構わないけど」
「ちょ、ちょっと待った!まるで人を犯人みたいに……って、検事どこに行くんですか!?」
「決まってるだろ、帰るんだよ」
ほら行こう。そう言って目配せしてきた牙琉について行くために、王泥喜は慌てて自分の荷物をまとめた。
成歩堂とみぬきに挨拶をして事務所から出て行く時に背後から「プリンありがとう、みぬきと一緒に食べるよ」という明るい声が聞こえてきて、自分の分は無いのだな、と確信した。