俺には弟がいる。それはそれは、可愛い弟が。
弟といっても本当の弟ではない。弟のように可愛がっている、が正しい。
口は悪いが剣の腕は一流で、気難しい性格だが慣れると考えていることが分かるようになる。
普段は一匹狼のくせに、俺が誘えば食事を共にする。ただの雑談も、眉を潜ませながらも黙って聞いてくれる。
そんな弟だった。
何かや誰かを愛でることは簡単なようで難しい。
ただ単純に愛を注げば良いわけではない。花に水をやりすぎると枯れてしまうように、この可愛い弟も一筋縄にはいかず構い過ぎると「鬱陶しい」と言い残しどこかへ行ってしまう。
だがらと言って水を与えなさ過ぎるのも良くない。俺が別の女生徒ばかりと談笑していると口には出さないがへそを曲げてしまうのだった。
そんなところが可愛いと言っても幼馴染たちは賛同してくれない。
でも、それで良かった。
彼の可愛いと思える部分は、俺だけ知っていれば良いのだから。
そして今日も、日当たりの良い中庭で愛しい弟の姿を見つけた。
「フェリクス」
名前を呼べば、一瞬だけ立ち止まる。だが、気づいていない振りなのかそのまま先へ行こうとする。
いつもと変わらない同じ姿に安心する。俺がこう思っていることを、きっとお前は知らないだろう。
速足で追いかければすぐに俺たちの距離は縮む。肩をぽんと叩けば「なんだ」と聞き慣れた声がする。周りからすれば邪険に扱われているように見えるだろう。
「訓練場に行くのか?」
できるだけ、自然なように。
「だとしたらなんだ」
冷たい返事は胸の奥をあたたかくする。
「一緒に行くよ」
そこでフェリクスはやっとこちらへ振り返った。
「どういう風の吹き回しだ、シルヴァン」
昔と比べると、名前を呼ばれることが少なくなった。
いつもフェリクスから名前を呼ばれた回数を数えてしまう。今日はまだ、一回目だ。
「たまには真面目に訓練しろって言ったのはフェリクスだろ?」
返事は無かった。
そのまま訓練場へと向かっていく彼の後姿を、俺は黙って追いかけた。
槍は間合いが大事だ。何も槍だけに限った話ではないが。
近すぎず離れすぎず、適切な距離を保ちつつ相手との距離を詰める。
槍は懐に入られたら終わりだ。そうなればもう武器を捨てるか、潔く死を覚悟する。
「久しぶりだな、訓練場に来たの」
槍を構えながら言うと、フェリクスも「お前が怠惰なだけだ」と剣を抜いた。
武器の間合いは、人間との間合いの詰め方にも似ている気がする。
ここで言う人間とは、関係性や距離感のことだ。遠い人間は心が読めないが、近すぎる人間は扱いが難しい。
だが世の中にはするりと懐に入り込もうとする奴らが大勢いる。紋章、家柄、地位。俺を介して何かが欲しい人間が大勢いる。
ここで距離を空け過ぎると、それは敵になる。でも、近づけるのも危険だ。
互いの武器を振るう音だけが聞こえる。フェリクスは力もあるが、スピードもある。彼の剣の動きを目で追うことは、こんなに難しかっただろうか。
近づかれたら終わりだ。それだけを頭に置いて、彼が隙を見せるのを待つ。
適切な距離、それは武芸よりも先に学ぶべきもののような気もするが、故郷では武器を手にすることの方がよっぼど重要視される。
鉄のぶつかる音が響く。戦場以外でこの音を聞くのはどうにも落ち着かない。
訓練用の武器なのに、やたらと重い。フェリクスが、そうさせている。
そして、ヒュンと風を切るような音の後に、いつの間にか懐に入り込んだフェリクスの剣が首のすぐ横を通り過ぎた。
「―――降参」
槍を置きながら言うと、フェリクスも黙って剣を降ろす。
「やっぱりお前には勝てないな」
「お前はもっと真面目に訓練しろ」
戦場で足手まといになるな。そう言うフェリクスは、なんてことないように汗を拭う。
そして黙って出て行こうとするのでどこへ行くと問いかければ、「腹が減った」と一言。
先程まで熱かった筈の体はすっかり冷めた。フェリクスは、いつもこうだ。簡単に俺の懐に入り込む。
慌てて彼を追いかけて一緒に行くと告げれば、少しだけ表情を綻ばせる。
そんな可愛い弟が、俺は愛おしくてたまらなかった。