Love Me Better

この春、俺は大学生になった。
家と学校はそう遠くは無く、電車で2本という距離だ。
1週間たった頃にはそこそこ交友関係も築いており、勉強もなんとか追いついて行っている、という具合だ。
そして今は大学と家の中間の駅付近の喫茶店でバイトをしている。講義の後に向かえば間に合う距離なので、とてもありがたい。
その喫茶店は両親の知り合いの店で、丁度一人バイトが欲しいと思っていたからと俺を雇ってくれた。
家族ぐるみの仲であったのでマスターとは俺も面識があり、あがり症な俺も過度な緊張をすることなく働き口を見つけることが出来たわけだ。
こんなにポンポンと良い方向に進んでいくと、いつか悪いことが起きるのではないかといらないことを考えてしまう。これが、昔からネガティブと言われる俺の悪いところだ。
コーヒー専門のこの喫茶店で働く俺の仕事は、オーダーを取ったりレジを担当したり掃除をしたり、と簡単なところから始めている。
慣れてきたらコーヒーの淹れ方も教えようと言われてテンションが上がっている俺は、その日を待ちわびた。自分でコーヒーを淹れられる男って、なんかかっこいいじゃん。
このお店は19時で閉店の為、18時半でラストオーダーとなる。その日はお客さんもそんなに来なかったので18時20分を回った頃に早めに片付けの準備をして良いと言われた。
マスターもこのまま買い出しに行ってくると言い残し、店の戸締りもお願いされた。
では片づけの準備を始めようと思った時、入口のベルがカランと鳴った。
見ると、俺と同い年ぐらいの黒髪の青年が立っていた。
手足がほっそりと長く、切れ長の青い目が美しい。どこかで見たことがある気もしたけど、有名人でもないようだ。
まるでモデルみたいで、かっこいい人だと思った。俺も、こんな風だったらもっとモテたかなぁ…。
何か大きな箱を抱えていた彼は、まっすぐ正面のカウンターの席へと向かい、俺の目の前に座った。
「コーヒー欲しいんだけど」
あまりにも唐突のことで、俺はいらっしゃいませと言い忘れていたことに気が付いた。
「い、いらっしゃいませ。あの、すみません、今日はもうお店閉めるところで、コーヒーお出しできなくて…」
「そうなの? ここっていつもは何時閉店?」
「19時です」
「へぇ。ならコーヒーは良いから、閉店までここにいさせてほしいんだけど」
ええ、何それ。せっかく早く帰れると思ったのに。
今日は、発売を楽しみにしていたゲームが家に届く日だった。1秒でも早く帰って遊びたいのになぁ…なんて思っていたら、彼が隣の席に置いた大きな箱がちらりと目に入った。
「あっ」
思わず声が出た。だってその箱、俺が楽しみにしてたゲームのパッケージがプリントされていたから。
箱の大きさからみて、本体同梱の限定版だ。すごい、あれ結構な値段で出荷数も少なくて、なかなか手に入らないはずなのに。
「なに、これ知ってるの?」
「あ、はい。俺…僕も、それ買ってて」
「敬語なんていいよ、今俺は客じゃねーし」
「はぁ…」
何と言うか、よく分かんない人だな。クールで無表情っぽいのに、ゲームの話に食いついたときは子どもっぽい笑顔で少し可愛かった。
それから俺たちは、ゲーム談議に花を咲かせていた。俺たちが買ったゲームは有名なメーカーのトップタイトルで、今回がシリーズ3作目だ。過去作のアレが良かった面白かった等、話題が尽きることは無い。
話してみるとこのお客はなかなか明るくて、第一印象と違ってとても話しやすい。作り物のような外見の人なのに、喋ることは俺たちのような人間と何も変わらないのだ。
また、年齢も同じことが分かった。そして、彼も大学生であることも。
どこの大学か聞いたとき、彼が「ノクト」と言った。
「俺の名前。お前は?」
「えっと、プロンプト」
「プロンプトか。なぁ、今からうちに来るか?もう店閉めるんだろ?」
突然の申し出に慌てた。ついさっき知り合った人の家にお邪魔するのって、一般人にとってはとても勇気がいることなんだよ。
「俺一人暮らしだから気にしなくて良いし。せっかく新しいゲームだから、知ってるやつと一緒にやりたいじゃん」
なるほど、彼…ノクトはゲーム仲間が欲しかったのか。それならば納得だ。俺も同じゲームを楽しむ仲間は欲しかったところだ。
自分の分は明日やればいい。今日は彼に付き合ってあげよう。

店の片付けと戸締りをするので待ってほしいと言うと、連絡先を交換して先に家で待ってると住所をスマホに送られた。
これは、大丈夫なのだろうか。でも約束をすっぽかすと、後で何かいけないことが起きる気がした。
片付けと戸締りを済ませノクトに言われた通りに彼の家に向かい、俺は建物を見上げて唖然とした。
「嘘でしょ」
住所からなんとなく予想はしていたが、彼の住んでいるらしい部屋は地元でも有名な高級マンションだった。
一体何階まであるのだろう、想像もつかない。とりあえず入ろうとエントランスへ向かう。
入口は厳重にロックされており、暗証番号が分かる者もしくは部屋主の許可がある者のみ建物内へ入れる仕組みとなっていた。
エレベーター前のインターホンを鳴らすと、すぐに「はい」とノクトの声が聞こえた。
「プロンプト、です。遅くなってすみません」
「だから敬語いいって。今、開けるから」
ポン、と小さめの電子音が鳴り、インターホンの横の小さな電子ランプの色が赤から青へと変わった。
エレベーターに乗り、指定された階の部屋を目指す。廊下が凄く広い。一戸建てのうちの廊下より広いのではないだろうか。
長く真っ白な廊下には俺以外誰もいなくて、歩くたびに足音が響く。少し怖い。
ノクトの部屋の前まで来ると、ノックをする前に扉が開いた。
「おお、ちゃんと辿り着けたな」
「あれ?なんで着いたって分かったの?」
「ここ親父のマンションだから、部屋の前に監視カメラついてんだわ」
父親のマンション?監視カメラ?なんだそれ。
いまいち状況が掴めないまま部屋の中へと誘導される。玄関で靴をそろえてお邪魔すると、部屋の中はマンションの外観とは真逆でゴミ屋敷だった。
「ちょっと散らかってるけど、その辺に適当に座ってて」
ちょっと、どころではないと思う。でもそんな文句も言えないので、言われた通りにテレビの前のソファへと腰を下ろした。ソファはふかふかで気持ちがいい。
こんな空間でゲームできるなんて羨ましいなーなんて思っていると、ゲームの箱を持って来たノクトが隣に座った。
「じゃあ、はじめようか」
「うん。あ、俺お土産持ってきてるんだー」
家にお邪魔させてもらうということで、ここに来る途中にコンビニでジュースとスナック菓子を購入していた。
コンビニ袋をローテーブルに置くと、ノクトはサンキュと言った。すごく普通の友達っぽい。さっき会ったばかりなのに。
さてゲームを始めるかとコントローラーを握ろうとしたところで、髪の毛に触られた。
「え、え?」
びくりと肩がはね、後ずさってしまう。
「金髪、珍しいよな。それって地毛?」
ソファの端まで追いやられた俺に、ノクトは少しずつ身を寄せてくる。その時体はもうがちがちに固まってしまっていた。
「地毛、だけど…」
再び髪に触れられ、さら、と視界を流れる自分の前髪のせいでノクトの顔がよく見えない。
「綺麗だって言われるだろ」
「言われないよ…俺は目立ちたくないから、あんまり気に入ってないんだ」
「ふーん」
彫刻のような顔が目の前にある。ぎゅ、と目を瞑ると、なんでもないみたいに「ゲームしようぜ」とノクトが言った。
きっと、これは彼なりのスキンシップだ。少し過剰なだけで。今は、彼とゲームを楽しもう。

一通りゲームを楽しんだ俺は、スマホを見て24時を過ぎていることに気が付いた。
両親には帰りが遅くなると伝えているが、これはまずい。明日も講義がある。
「今日はありがとう、楽しかったよ。遅くまでごめん。じゃあ俺、帰るから…」
慌てて荷物をまとめていると、その腕を強く掴まれた。
「なんで。泊まってけば良いじゃん。大学、こっからでも近いんだろ」
「そうだけど、悪いし、着替えとか、風呂とか…」
「んなの貸してやるし」
ノクトは愛想の良い笑顔をしているが、目が、笑ってない。
深い青色の瞳の奥がギラギラと光っている気がした。俺はまるで狼につかまった羊のようで、幼いころ両親が口酸っぱく知らない人について行ってはいけないと言っていたこと思い出した。
この手を振り払って逃げ出したいのに、ノクトの綺麗な顔が俺を離さない。もっと見ていたいとさせるのは、悪魔のささやきか。
ぐいっと引っ張られた腕につられ、その場に尻もちをついてしまう。ノクトに覆い被さられ、逃げ場を失う。やばい、これはやばい。
「お前、俺の顔好きだよな。ずっと見てたよな。はは、バレバレだって」
赤くなったり青くなったりする俺を楽しんでいるのか、ノクトは徐々に顔を近づけてくる。
鼻先がぶつかりそうになったところで、俺は今まで出したことないくらい力を振り絞った。
「……ごめん!」
傍に転がっていたクッションでノクトの顔を叩き、怯んだところで彼の腕から逃げ出した。
ああ、あの綺麗な顔を傷つけてしまった。雑誌ではなくクッションを選んだのはなるべく傷をつけたくなかったからだ。彼の言うとおり、俺はあの綺麗な顔が大好きだ。
部屋から飛び出す直前に「また明日な」と後ろから聞こえた。どうか、聞き間違いでありますように。

次の日、俺は盛大に寝坊した。
一限は諦め二限から出ると、同じ講義を受けている友人に珍しいと言われた。大学生になって寝坊で遅刻したのは初めてだったから。
昨日のことを話すべきかどうか迷って、結局言えなかった。
あの後俺は、家に帰った後もノクトの連絡先を消すことが出来なかった。
向こうから連絡が来ることも無くこちらから送ることも無かったけど、昨日はびっくりしたけど、どうしても削除の文字をタップすることが出来なかった。
不思議な人だった。もしかしたら狐に化かされていたのかもしれない。この現代社会に物の怪とは、なかなか風情があるではないか。
そうポジティブに捉えればきっと悪い思い出ではなくなる。きっともう出会うことは無いし、良い思い出にしたいのだ。一緒にゲームや雑談をして笑っていた時は、確かに楽しかったのだから。
昨日のことは一旦忘れて講義に集中しようとしたところで、斜め前の席に見覚えのある人影があることに気が付いた。
「へ…」
間抜けな声が出たと思った時には既に遅く、その人物はこちらに振り返ると目を細めてにやりと笑った。
(ノクト。なんで、どうして)
一人で慌てていると、彼は前に向き直り男女様々な生徒に囲まれてしまった。
「なんだプロンプト、知り合いなのか?」
「知り合いって言うか…有名な人?」
「有名も何も、ノクティス王子だぞ。噂になってるだろ」
友人に詳しい話を聞いた。彼はノクティス。勉強・スポーツともに万能で、ある財閥の御曹司なんだとか。
新入生代表の挨拶もしていたそうだ。どこかで見たことがある顔だと思ったのはそのせいか。
彼とお近づきになりたい女子は後を絶えないらしく、常に誰かが彼女の座を狙っているという。恐ろしい。
まるで憧れの王子様のような容姿の彼は、そのままの意味でノクティス王子と呼ばれているらしい。
でも彼は、俺にノクトと名乗った。何故なのだろう。
「というか、ずっと同じ講義受けてたんだぞ」
「だってこの講義人多いし」
「まあなー」
人がどれだけ多くてもあのロイヤルオーラは隠せそうにないけど、俺は何故か見落としていたらしい。新生活にあたふたして、それどころでも無かったのかもしれない。
「いいよなー、女子にモテまくりでさ。あんなのが同じ大学にいたんじゃ勝ちめなんてないよな」
「うん…。でもあれだけ人気だったら、すぐに彼女なんてできそうなのにいないんだね」
「遊びたいんじゃねーの? あーでも、最近別の噂があって」
ノクティス王子には意中の相手がいる。
誰も知らないその相手を探るのに皆必死で、でも誰なのかは未だに分かっていない。
ノクティス王子も絶対にその相手の名前を出さない。でもその人のことを楽しそうに語る、と。
それを聞いた途端、全身が冷えた感じがした。そっかそっか、ノクトには夢中になるほど好きな人が…。
何故自分が落胆しているのか分からなかったが、その話はもう聞きたくない気がした。
「王子に迫られても傾かない女って誰なんだろうな…って、聞いてるか?」
「えー?うん聞いてる聞いてる…」
嘘つくな、と小突かれる。ごめんと言って笑いあっていると、自分のスマホからメッセージアプリの通知音が聞こえた。
画面を確認すると、差出人:ノクトの文字が浮かんでいる。
慌ててメッセージを確認すると、「驚いた?」とだけ書かれていた。
驚いたもなにも、こっちは口から心臓が飛び出る勢いだったのに、本人はなんでもない顔してて、良い気なんてもちろんしていない。
…とは言い返せず、そのままメッセージアプリを閉じた。俺はなんて意気地なしなんだ。
「だれ?女の子?」
隣から友人が顔を近づけてきて、スマホを覗き込もうとしてくる。
「いや、そんなんじゃ…」
相手がばれて何か聞きだされても困るので必死に隠そうとしていると、丁度講義が始まった。
早く終われ。いややっぱり終わるな。
後ろから見るノクトもかっこいい、なんて思っている俺は、きっと馬鹿なんだろう。

講義が終わると、俺はバイトがあるからと友人に告げ急いで講義室を飛び出した。
もたもたしてノクトに掴まるのも嫌だったし、何より女子に囲まれている彼を見たくなかった。
もし俺が女だったら、あの輪に入って必死にノクトへアプローチしたのだろうか。
ノクティス王子、さっきの教授の話、全然面白くなかったよね。
ノクティス王子、昨日のテレビ観た?
ノクティス王子、お昼一緒に食べない?
ノクティス王子、今度家に遊びに行っても良い?
下心のある会話が頭を巡り、俺は頭を振った。
なんだこれは。これでは恋する乙女だ。俺は男だ目を覚ませプロンプト。
バシ、と両手で自分の頬を叩く。こんなんじゃ駄目だ。この後バイトがある。余計なことを考えていたら失敗する。
バイト先に到着すると、もう一度自分の頬を叩いた。しっかりしろ、俺。
それをマスターに見られていたらしく今日は気合入ってるなと笑われた。
いつも通り、いつも通りで良い。余計なことは考えるな。
俺はスマホを取り出し、ノクトの連絡先を削除した。彼はもう、俺とは関係のない人間なのだから。

そのまま何事もなく閉店時間まで働いた俺は、マスターからバイト代だと茶封筒を受け取った。
初めての給料に心が躍った。ありがとうございますと深く頭を下げ、片付けを終わらせると元気よく店を出た。
何買おう。欲しいゲームがあったな。でも新しい靴も欲しい。どうしよう悩む。
夜も遅いので辺りは暗いが、俺の心は明るかった。鼻歌交じりに駅まで歩いていると、横から手に持っていた茶封筒を奪われた。
「こんばんは、金髪クン」
声のした方を見ると、猫のように目を細めたノクトがいた。
まるで煽るように、俺から奪った茶封筒をひらひらと見せつけてくる。
「!? 返せ!」
ノクトの持つ茶封筒に手を伸ばすが届かない。背はそんなに変わらないのに、ひらりをとかわされてしまう。
「どうして、こんなこと…」
「さぁ、どうしてだろうな。薄情な誰かさんが俺のこと無視したり、連絡先から消したりするからかな」
何も言えなかった。全てお見通しなんだ、この男には。
急に体が震えた。怖い。逆らうと何をされるんだろう。
それでも月明かりに照らされるノクトは美しく、目が離せなかった。馬鹿、はやく逃げなきゃいけないのに。
「どうして、俺に構うんだ」
やっと出た声に、ノクトは不機嫌そうに眉を寄せた。
「どうして、か。それをお前が言うのか?」
「だって、ノクトには好きな人がいるんだろ?なんの関係もない俺なんか放っておいて、その子のところへ行けばいいじゃないか」
そう言うと、ノクトは茶封筒を俺の胸に押し当ててきた。それを受け取ろうとしたら腕を掴まれ、背後の壁に追いやられる。
茶封筒が地面に落ち目線で追うと、顎を掴まれ無理やり正面を向くように固定された。
目の前にノクトの顔がある。こんな時でも綺麗だなんて思ってしまうから、もう逃げる気も失せてしまった。
「お前の金髪、目立つよな」
「……なんの話」
「俺はお前がどこにいても見つけられる。でもお前は、俺がどれだけ目立っても見つけられないんだなって」
何を言っているんだろう。まるで昔から俺のことを知っているような口ぶりのノクトは、俺を見ているようでどこか遠くを見ている気がした。
俺の耳元に口を寄せると、囁く様に告げられた。
「俺が何回お前の隣に座ったことがあるか知ってるか?」
「23回。大学と、電車と、そこのバーガーショップと、図書館。知ってた?」
「お前全然気が付かないもんな。もう、待つの疲れたわ」
言い終えると、ノクトは俺に肩に額を乗せた。
「…ノクト?」
「悪い、俺―」
ノクトの肩を掴み、ぐいっと体を離す。
「俺、ノクトの家に行きたい。行っていい?」
「…はぁ?」
「ノクトばっかり俺のこと知ってて不公平だよ。俺も、もっとノクトのこと知りたい」

そのまま二人でノクトの部屋があるマンションの前まで来た。
二人とも始終無言であったが、俺はもう、なんであんなこと言ってしまっただろうかとか、無事に帰れるだろうかとか、不安しかなかった。
だったら帰れば良いのだが、良くも悪くも自分にこんなに執着してくる人間は初めてで、俺はもっとノクトと話がしたかった。
正直、ノクトのことは怖い。でも、この人は俺に興味を持っている。
そんな人のことをもっと知りたいと思うのは、きっと、悪いことじゃない。
「いいのかよ」
エントランスホールでぽつりとノクトが言った。
「いいもなにも、来たいって言ったのは俺だし」
エレベーターが来るのを並んで待つ。変な感じだ。
「無防備。馬鹿。単純」
「何それ俺のこと?」
「でも」
到着したエレベーターの入口が開き、先のノクトが乗った。
その後に続くと、ぼそりと「ずっと、綺麗だと思ってた」と言われ一瞬どきりとしたが、すぐ「ああ、髪のこと?」と返した。
するとノクトは笑った。やっぱりお前馬鹿だよ、と。
いつの間にか拾ったらしい茶封筒を俺の上着のポケットへ無理やり押し込まれる。でも今は、それどころじゃないんだ。

大学の入学式の後、俺はサークル勧誘をしてくる先輩たちを避けながら暗室に向かっていた。
この辺りで暗室のある大学は少なく、写真好きの俺がこの大学を選んだのはこれが理由だった。
一度しっかりと見ておきたくて暗室のある棟へ向かっている途中、渡り廊下で人とぶつかった。それがノクトだった、らしい。
尻もちをついた俺にさっと手を差し伸べてくれたスーツ姿の男のことは覚えている。
丁度逆光で男の顔まではよく見えなかったし、軽くお礼をしてそのまま去ってしまったのでそれがノクトだったなんて知らなかった。
でもノクトにとってはあれが運命の出会いだったようで、その後持てる力を尽くして俺を探したそうだ。
名前、年齢、履修している科目、家の場所等々。今思えば少しホラーだが、ノクトの必死さを思えば笑って許せた。
プライドの高い彼はどうしても自分から声をかけることが出来なかった。だが昔から目立つことに自覚はあったので俺から話しかけてくることを期待したらしい。
でもいつになってもそんな日が来ない。痺れを切らした彼は俺のアルバイト先を突き止め、俺が興味を持ちそうなものをわざと持ってやって来たそうだ。(ただゲームを好きなのは本当だったようだ)
そんなことを話すノクトの顔が少し赤く、俺はなんだかむず痒い気持ちになった。学校中の注目の的の王子様が、こんな一般市民一人のことでどうしようもなくなるなんて。
ノクトの部屋で、二人でずっとそんな話をしていた。一晩中誰かと話すなんて高校の修学旅行以来で、実をいうと少し楽しかった。
「変なこと聞くけど、俺のどこがそんなに良いの?」
なにせアルバイト先で話をするまでまともに会話をしたこともなかったし、自分の外見にそこまで魅力があるとも思えない。
金髪は珍しいので目を引くかもしれないが、目の色も、そばかすも、背格好も、何も特別じゃないのだから。
「眩しいって」
「うん?」
「眩しいって思った。はじめてお前を見たとき」
太陽の光が髪に反射してキラキラしてて、眩しくて、綺麗で、笑った顔を可愛いと思った。こんな人間初めて見た、と言うノクトからつい目を逸らしてしまう。
そんなことを他人から言われたこと無かった。一緒にいて楽しいとか言われることはあっても、綺麗だなんて。ましてや可愛いだなんて…。
「…ね、なんで俺に名前言うとき、ノクティスって言わなかったの」
「お前の前ではノクティス王子じゃなくて、ノクトでいたかったから」
かっこつけるじゃん。かっこいいんだけどさ。
「ノクト、俺のこと好きすぎだね」
「お前だって俺の顔好きだろ」
「うん好き。でも、今は顔以外も…」
その続きは言えなかった。ノクトの手が、俺の口を塞いでいる。
「お前から言うのは無し」
「じゃあノクトから言ってよ」
「あー、うん、えー…」
次の言葉をなかなか出せないノクトの口に、俺は自分の口を押し当てた。
驚いたのかノクトは大きく目を見開いたが、抵抗はしなかった。
すぐに離した口を指差し、一言。「きちんと話せるおまじない」
無防備、馬鹿、単純…と先ほども聞いたような言葉の後「そんなところが好きなんだ」と、小さな声が聞こえた。
よく言えましたの代わりにもう一度短いキスをする。
「俺のこと、好きになってくれてありがとう。俺も好き。ずっと空いてた彼女の座、貰っても良いかな」
「お前の為の席なんだから、当たり前だろ」
学校の皆ごめんなさい。
今日からは、俺がノクトを独り占めする。