his method

「じゃあ、次の問題」
優しい声と、ふわりと香る品の良いコロン。ローテーブルに並んで座っていて距離が近いからか、それとも彼の部屋にいるからなのか、その香りはいつもより濃く感じた。
自分のものよりも大きな手が解き終えたテキストを開き、満足そうに微笑んだ。
今日は数学の日だから昼間からずっと数字やあらゆる公式と睨めっこしている。時計を見ると、もう夕方に差し掛かる頃だった。
流石に脳が疲れていて、目を擦る。気がつけば窓からは夕日が差し込み、部屋の中が少し赤く染まっていた。
夏季休暇に入ってからのこの一ヶ月間、毎日勉強の日々だった。それも仕方がない。今年の俺は、受験生なのだから。
高校生になってから入部した剣道部は引退してしまっているし、暇があれば勉強、勉強、勉強。体を動かす機会が減りストレスは溜まる一方だ。
元々頭を使うより体を動かす方が好きだった自分としては、早くこの勉強漬け生活を終わらせたい。その為に推薦入試で大学に合格したかった。
受験先のレベルをもう少し落とせば推薦で合格できる確率は上がるのだが、俺はどうしても今の志望校に入学したかった。それには今の学力では少し物足りなかった。
そんな時、自ら家庭教師を申し出てくれたのが幼馴染のシルヴァンだった。自分より2歳年上な彼は現在大学2年生で、これから受験しようとしている大学の在学生だ。
シルヴァンは昔から学力が高く成績優秀であったし、このまま無事入学することが出来れば先輩になる人物な為、家庭教師としては申し分なかった。
もともと受験する大学をシルヴァンには教えていなかったが、兄のグレンが「弟の受験勉強に協力してほしい」と頼んでしまったらしく、それなら一肌脱ごうと何故だかやたらやる気に満ち溢れたシルヴァンがやって来た、というわけだった。
塾に通ったり他の家庭教師についてもらうよりも気楽に勉強に励むことが出来ている為シルヴァンには感謝しているが、それでも心身ともに疲れが出てきてしまっていた。
気がつけばため息が出ていたようで、隣に座るシルヴァンが苦笑する。
「フェリクス、疲れた?」
ぺら、と問題集のページをめくる彼の手が止まり、眼鏡(度が入っているのかどうかは知らない)を外した。
シルヴァンは、こうして勉強を教えてくれる時に眼鏡をかける。聞けば、机に向かうときは家でもかけているそうだ。
眼鏡をかけている時は別人のようで、いつも若干緊張してしまうとは本人にはとても言えなかった。
「休憩しようか」
眼鏡を机に置くと、シルヴァンは立ち上がった。
「どこへ行くんだ」
「ちょっとは頭も休めないとな」
そう言い残して、シルヴァンは部屋を出ていった。
一人になった自室で、他に誰もいないのを良いことにそのまま床にごろりと寝転んだ。
ちょうど頭の位置にクッションが置かれていて、後頭部にふかふかの感触がある。今の自分にとっては至福の時だった。
ちょっと休むつもりで目を閉じたのに、今日解き終えた数式が脳裏に浮かぶ。俺に休息の時は無いのだろうか。
片手で目を覆い深呼吸し、やっと数式たちが消えていく。その代わり浮かんでくるのは、シルヴァンの顔だった。
この一か月自分にかかりっきりなシルヴァンには本当に感謝しているが、その一方で申し訳ないという感情が膨らんでいた。
大学2年生なって、きっと楽しい時期なんだろう。なのに彼はこの夏季休暇を自分の為に使ってくれているし、合わない日でも気遣うようなメッセージを送ってくれている。
シルヴァンとは小さな時から家族ぐるみで付き合いがあった。面倒見も良い方だった彼はよく自分を気にかけてくれたし、実際同級生よりも一緒に過ごした時間は多かった。
家庭教師が始まる前からも時間が合えば一緒に過ごすことが多く、お互いの家を行き来するのは日常茶飯事だった。
だが幼馴染のよしみと言っても限度があるだろう。そう思えるぐらい、シルヴァンは自分にべったりだった。
だから、過去にこんなに自分に時間を使ってくれなくて良いと言ったことがある。
だが彼は好きでやっていることだからと言い、結局ほぼ毎日一緒にいる、ということになっていた。
正直、何が面白くて自分と一緒にいてくれるのか分からなかった。だけどシルヴァンと一緒にいられることが嬉しくも思う。
そんなことを考えてしまうどうしようもなく身勝手な自分が、どんどん惨めにも思えてきた。


「あ、起きた」
目の前にシルヴァンの顔があり、俺は慌てて飛び起きた。
それに続くように上半身を起こしたシルヴァンは「いやーそんな慌てなくても」なんて笑っている。
あれから気が付けば眠ってしまっていたようで、時計の針は1時間後を指していた。
「悪い、眠っていた…」
というか、何故お前まで一緒に寝ているんだ。さっさと起こせばよかったのに。そう思ったが、声には出さなかった。
「疲れてたんだろ? 気にすんなってー」
なんでもないように、シルヴァンはテーブルに並べられているアイスコーヒーを注がれたコップを手に取ると、はい、と差し出してくれた。
受け取ったアイスコーヒーを一口飲むと、氷が溶けて温くなっていた。よく見ると、他にも茶菓子が用意されている。
シルヴァンへの申し訳さなから、思わず目頭を押さえた。
「あ、また」
じ、とシルヴァンがこちらを見据えている、
何が、という声の前に、シルヴァンが目頭を押さえた俺の手を取り、床に押さえつける。
「そんな眉間に皴ばっかり寄せてたらモテなくなるぞ」
はあ、とあきれた声が出る。彼がふざけてこんなことを言っているのは知っている。
片手は床に縫い付けられ、もう片方の手にはコップがあり、実質両手をさがれている俺に、シルヴァンが整った顔を近づけてくる。
鼻先がぶつかりそうなところで、シルヴァンの口が開かれる。
「きれいな顔なのに」
何を、言ってるんだ。とは思うのに、どんどん顔があつくなってくる。
「馬鹿なこと言うな。あとさっさと離せ」
「えー?」
さっと顔をそらし、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせるようにテーブルにコップを置くと、直後その手も取られて床に押し倒された。
「何をしてるんだ」
突然のことに驚いたが、目の前のいつもと変わらぬ表情に、どこか安堵もあった。
部屋の天井の照明が逆光になって、シルヴァンに影が差す。
上に覆いかぶさられて身動きが取れないが、不思議と不快ではなかった。
「勉強、しすぎだよなって思って」
ぽつり、とシルヴァンが呟く。
「これでも受験生だからな」
「ああ。でも、俺と同じ学校、受かってほしくてさ」
根詰め過ぎだったかな、と苦笑する彼の表情は、どことなく寂しそうだった。
「前に、フェリクスがこんなに構わなくても良いって言ったとき」
すごく、寂しかった。今にも泣きそうな顔でそんなことを言われたら、俺にはもう、どうしたら良いか分からなかった。
切羽詰まったようなシルヴァンの声と押さえつけられた両手が現実から遠ざけていく。
「フェリクスの為だなんて言って、本当は俺がお前と一緒にいたかったんだ」
「ああ…」
知ってたさ、そんなこと。そう言えたらどんなに良いか。
「お前が俺がいる学校を受験するって聞いたとき、期待したんだ。フェリクスも、俺と同じ気持ちなんじゃないかって」
同じ気持ちとはなんだ。お前は俺をどう思ってるんだ。
俺は、シルヴァンをどう思っているんだろう。
シルヴァンの言葉が頭の中でぐるぐると駆け巡る。俺たちは、何か大事なことを見落としているんじゃないだろうか?
「フェリクス、俺---」
「ふざけるな」
押さえつけられた両手を無理やり振りほどき、そのまま自分に覆いかぶさっていたシルヴァンを抱き寄せた。
触れるからだがあつい。こいつ、こんなに体温が高い男だったのか。
「フェ、フェリクス…」
ぽんぽんとあやす様に背中をたたいてやると、シルヴァンは抵抗しないどころか、俺の首筋に顔を埋めてくる。
「甘えてしまっていたのは、俺の方なのに。なのに、全部自分が悪いみたいに…」
そんなこと言わないでくれ。そう言うと、首筋から顔を上げたシルヴァンにキスをされた。
「嫌だったか?」
そのまま起き上がったシルヴァンが、こちらに向かってにこりと微笑む。
「別に…」
気恥ずかしさから寝転んだまま顔を背けると、はは、と笑い声が聞こえた。
「そっか…うん、そっか」
満足そうなシルヴァンの表情になんとなく腹が立ち、そばにあったクッションを投げつけてやる。が、華麗にキャッチされてしまった。
「フェリクスの考えてることならだいたい分かっちゃうからな」
「なら、今何考えてるか当ててみろ」
上半身を起こすと、少し頭がくらくらした。
「そうだなー…」
シルヴァンは、ウーンとわざとらしく顎に手を添え考えるそぶりを見せた後、どびきりの笑顔でこう言った。
「もう一回キスしたい、とか?」
今度は先程より力を込めてクッションを投げてやる。
それと同時にぎゃ、と情けない声が響いて、すっかり崩れてしまったいつもは端正な顔に思いっきりキスをした。