誰のものでもない - 1/2

 ある日の帰宅途中、電車に乗るタイミングが悪く普段よりも乗車人数の多い車両に乗っていたカミュは息苦しさを感じていた。低くもないが高くもない身長の為か、周囲に体格の良い人間が集まるとどうしても押しつぶされそうになってしまう。
(最悪だ。次の駅で降りられるのに……)
 身動きの取れない満員電車の中で少しでも楽な体勢になろうと顔をあげる。すると、ちょうど視線の先に、カミュよりも少し背の高い青年の姿が見えた。彼の名前は知らない。だけど何度も見たことがあるので、いつの間にかその姿を覚えてしまっていた。
 今日はいつもと違う時間なのに同じ車内にいるなんて。カミュはその青年に興味があった。端正な横顔、太めの眉と大きな瞳、整った鼻筋。派手ではないが目を引く容姿に、カミュはすっかり見入っていたのだった。つい舞い上がってしまい、気がつけば普段は遠くから見かけることしかない横顔を眺めていた。
 幸いにも彼はすぐ近くのこちらの視線には気が付いていないようだった。それに安堵し油断し切っている時、徐々に太ももへと違和感を覚えていった。はじめは誰かの荷物が当たっているのだと思った。だけれど、感触と動きからしてどうも違うようだ。するりと撫でるように何かが太ももの内側へと触れ、徐々にそれは揉むように上へと上がってくる。
 カミュは昔から、相手が男だろうと女だろうとこういったことに遭遇することがあった。嫌なものに慣れたものだとため息をつく。女性のような膨らみも柔らかさも持っていないと言うのに。カミュを不快にさせるその感触は、確実にそこを目掛けてゆっくりと動いていた。
「おい、良い加減に――――」
 いつもの様に犯人の手を掴もう思っていたのに、電車が揺れ壁と犯人と思しき男との間に挟まれるように体が傾いてしまう。衝撃を利用してカミュを壁際へと背後から押さえ込んでいる犯人が誰かは分かっているのに、耳元から顔が見えない相手の荒い息が聞こえてきて吐き気を覚えた。
 気がつけば男の手で口を塞がれ、声を出せなくなっていた。すると、ずるずると服の中に男の手が入り込んできた。直に尻を執拗に撫で回されたかと思えば、その奥に指を這わせているのが分かる。
(まさか……)
 嫌な予感は的中した。ぐり、と押し込むように男の指が奥へと侵入していく。突然の異物感に恐怖を覚えたカミュは、まともな抵抗もできないまま男にされるがままになっている。
(くそ、なんで……なんで、こんな)
 前を触れてくる奴はいても他人に後ろを触られるのは初めてだった。気持ちが悪いのに、ナカで何かを探すように動く男の指に合わせて勝手に腰が動いていく。そして指がどこかを掠めた瞬間カミュの口から「あっ」と小さな声が漏れた。
 嘘だろ。感じてしまった、知らない男の手で。カミュは絶句する。動けないのをいいことに、徐々に柔らかくなってきた肉壁を無遠慮な指が押し潰していく。その度に勝手に腰が揺れ、声が漏れ、涙が出そうになる。
「かわいい」
 男の小さな低い声が聞こえてきたと当時に、尻に硬い何かが押し付けられたのがわかった。それに背筋がゾッとしてますます身動きが取れなくなってしまい、抵抗が出来ない。下半身を這う不快な手を止めたいのに、動けない。あと数分で次の駅なのに。
 息苦しさと恐怖と不快感で目が霞んできて、男がカミュの服を下ろそうとしたその時だった。
「――何してるんですか」
 気がつけば下半身から不快な感覚が消えていた。何事かと振り返る。すると肩越しにいつも見ていたあの青年が先ほどまでカミュに触れていた男の腕を掴み、睨みつけていた。

 それからは、全てが走馬灯のように目の前を流れていった。
 カミュが青年に助けられてすぐに電車は次の駅へと到着した。ドアが開くと同時に男は青年の腕を振り払いこちらを押しのけると逃げるようにホームへと駆けて行き、青年は男を追おうとしたが他の乗客の波に巻き込まれ逃がしてしまった。だけど、それでも良かった。あの場から救われただけで青年には感謝してもしきれない。助けてもらえなければ、あの後どこかに連れ込まれていたかもしれない。そうすればもう、きっと自分にはどうしようもできなかった。
 乱れた服を整えたカミュは駅のホームで青年に感謝を告げ、改めて彼の姿を窺う。いつもは眺めているだけだった彼が目の前にいるのだ、正直これっきりにしたくない気持ちがある。だけど、何を話せばいいのか分からなかった。
「助かった、本当に感謝してる。あのままだったら、オレ――」
 男に触られた感触が蘇り、カミュは眉を寄せる。不快なはずだったのに、確かに身体が反応していた。あの時の自分はきっとおかしかったんだ、と必死に自分に言い聞かせるが、頭から焼きついて離れない。
「あ、あの。僕は……」
 ずっと黙ったままだった青年がやっと口を開けた。何かを言いたそうにもごもごと口を動かすが、どうにも歯切れが悪そうにしている。
「確かに、あなたが危ない目に遭ってると思って助けました。……だけど、それだけじゃ、ないんです」
 しゅん、と効果音が聞こえて来そうなほど青年は肩を落とした。落ち着かせようと思い背中に触れると、青年はびくりと震えた。
「あ、悪い。嫌だったか」
「いや、そうじゃなくて」
 離れていくカミュの手を、今度は青年が両手で包むよに握った。あっけに取られたカミュは、青年の様子をじっと窺っている。
「許せなかった。僕以外の人が触ってるって思ったら、勝手に体が動いてて。ごめんなさい、おかしいですよね、ごめんなさい……」
 そこでカミュは、自分を見つめる青年の両面に熱が込められていることに気がついた。そうか、オレと同じ知っている目だ。カミュは青年の頬に触れ、下がっていた顔を上げさせた。
「なあ、今から時間あるか」