前を向いてれば

初めて剣の柄を握った時、人間の肉を割いた時、溢れる血が視界を覆った時、何を感じたのかよく覚えている。
命乞いの声は耳につく。向けられた背中は剣士の恥だ。倒れた人間は人形のようにぴくりとも動かない。
どんどん下がる体温のおかげで寒さは感じない。雪が頬をかすめても、ただ柔らかい感触が過ぎるだけだった。
そんな時、いつも必要以上にあたたかい手が肌に触れる。
「大丈夫、大丈夫だから」
そんな言葉、欲しくなかった。


夢見が悪い日は体がやたらと重くだるい。
のそりと上半身を起こして、隣にあるはずの体温が無いことに気が付く。
焦りも安堵も無い。シーツに触れると、少しだけあたたかかった。
もう一度横になると、再びうとうとと眠気に襲われた。目をこすり、先程まで見ていた夢を思いだす。
(子どもの頃の話だ)
最近、やたらと昔の夢を見る。
兄上がまだ生きていた頃。幼馴染4人で遊んでいた頃。今よりも、自分が幾分か素直だった頃。
あの時は、前を歩く3人の歩幅に追いつけず、いつも少し速足になっていた。
雪に足を奪われ転びそうになると、決まって少しだけ大きな手がよろめいた体を受け止めてくれていた。

「フェリクス、大丈夫か?」
顔を上げると、少し眉を下げたシルヴァンが心配そうにこちらを見ている。
俺は大丈夫だと言いたいのに、情けなさか悲しさか上手く声が出せない。
ディミトリとイングリットもこちらを振り返り、きゅうと胸の奥が痛む。より息が出来なくなる。
(どうして上手く声が出せない)
今思えば、あの頃から大勢に囲まれることは得意ではなかった。
大人になるにつれそんな場から逃れる術は身に着けて行ったが、子どもの頃は逃げると言う発想すら無かった。
視線が怖いわけではない。ただ、いつか無くなるこの瞬間が不安だったのかもしれない。

固まったままの俺を見て、シルヴァンは困ったように笑う。
そして俺の頭と肩の雪をさっと手で払うと、「大丈夫そうだな」とわざと明るい声で言うのだ。
それを聞いたディミトリとイングリットもにこりと微笑むと、踵を返しまた歩き始める。
二人を確認したシルヴァンにぽんぽんと頭を軽く撫でられ、彼に手を引かれ俺も歩き始める。
「シルヴァン」
くいっと繋いだ手を少し引っ張ると、「どうした」と視線を寄こしてくれる。
シルヴァンはいつもそうだった。
俺が立ち止まるとあいつも足を止める。
俺が歩くとあいつも歩き始める。
心地よい空間を作ってくれる。安心して呼吸ができる場所を用意してくれる。
そして、どんなに小さな俺の声も聞き逃さない。
「ありがとう」
返事はいらない。
欲しいのは、ぶつかった視線と、その後の笑顔だけだ。


「おはよう、フェリクス」
再び目を開けると、今度は欲しかったものがそこにあった。
左の頬が暖かい。触れると、あの頃と同じ少しだけ大きい手があったので自分のそれを重ねた。
するとシルヴァンは驚いたように瞬きを繰り返す。そんなに、おかしなことだろうか。
「シルヴァンは、変わらないな」
体を起こしながら喋ってしまったので、声がうまく出ない。解かれた手は少し冷たかった。
でも、あいつはいつも聞き逃さない。
「そうか?」
前よりもいい男になったろ?と軽口を叩く様も、昔から変わらない。
そして、ほら、と淹れたての紅茶のカップを手渡される。
「これを、用意しに行っていたのか」
「そう…って、あれ。もしかして起きてた?」
ばれてたかー、と頭をがしがしと掻く姿に、思わず口元が緩む。
するとベッドサイドに腰かけていたシルヴァンが身を寄せてきて、距離が縮まった。
俺はティーカップを落とさないよう必死なのに、あいつはそんなの気にも留めていないと言いたげに顔を近づけてくる。
「フェリクス」
こういう時のシルヴァンの声は心臓に悪い。
その声で名前を呼ぶな、とは言ったことが無い。
「大丈夫」
大丈夫なもんか、お前はいつも適当なことばかり。
どうせ俺が逃げられないようティーカップを持たせたんだろうと魂胆が見えて、ため息が出る。
俺が欲しいのは、ぶつかった視線と、その後の笑顔だけ。
その先なんて、どうだって良かった。