もし、世界が滅んで何もかも無くなってしまうとしたら。
誰でも一度は考えたことがあるだろう。自分にも覚えがあることだった。
本当に世界が滅ぶとしたら。「世界」はどうなろうと知ったことではないが、それにまつわる様々なものも同時に無くなってしまうのは耐え難い。
己を構成する存在は様々だ。ポケモン、バトル、食事、睡眠、旅、そして。
「世界が滅ぶんだ!」
この雪山のど真ん中でそう叫ぶ幼馴染は、世界が滅ぶと言いながらも少しも焦りの表情をしていない。
それどころか、どこか清々しさすら感じる。不安に思って手を差し出し寒さですっかり赤くなった頬に触れると、その腕に手を重ねられた。
「こんなところで死にたくない」
「だろうね、今すぐ山を下りなよ」
「嫌だね」
ふん、と鼻をならす幼馴染のその様子が昔と変わらなくて、どこか安心する。
「グリーン」
名前を呼べば、重ねた手をぎゅうと握られる。
「レッドだって、ここで死にたくないだろ?」
挑発するような笑みを向けられ、思わず口を尖らせてしまう。
グリーンは昔から、僕の心を操るのがうまい。悔しいとき、嬉しいとき、悲しいとき、いつだって隣に彼がいた。
正解の分からない僕の道を照らしてくれる幼馴染は、いつも手を引っ張っては「しかたがないな」という顔をする。
それと同時に、僕の傷をえぐるのも上手だった。喧嘩をするとき、いつも僕はグリーンに口で勝てない。
それどころか僕が怒る言葉や傷つくところを的確につついてくる。どうすれば僕が悲しむのか知っているのだ。
力勝負になれば今では負けることは無いと思うが、確信は無い。そもそも僕は、彼を肉体的にも精神的にも傷つけたいと思ったことがただの一度だって無いのだから。
喧嘩をするのだって、僕という人間を理解してもらいたいからだ。僕が君に納得してもらうために、怒るしかなかったのだから。
「もう充分だろ。一生分のシロガネ山を満喫したはずだ、だからオレと一緒に来い」
嫌だと言っても彼は聞かないだろう。
本当はシロガネ山を下りる気なんて一切無かった。だけど、どうせ世界は滅ぶのだ。ならば最期にここを出ても良いと思えた。
グリーンが言うのだから間違いない。彼はいつだって正しいのだから。
———-
随分と遠いところまでやって来た。
ただ山を下りるだけだと思っていたのに、気が付けばグリーンとともにシンオウ地方まで来ていた。
移動中の手続きなどは全て彼が済ませていたので本当に僕は着いていくだけだった。シンオウまでの間はジョウトやホウエン地方にも立ち寄った。
どの地方にも神話や伝説がある。それを信じる人もいればそうでない人がいる。
目に見えない昔話に興味はあったが、真実かどうかはどうだって良かった。僕にはグリーンだけが真実だったからだ。
「なんでシロガネ山にいたんだ」
丁度ジョウトにいた時だろうか。グリーンと二人で旅をするようになって一週間経った頃、そう訊かれたことがある。
「なぜ…、なぜだろう?」
首を捻ると、呆れたようにグリーンがため息をつく。
「なんだそれ。自分で分からないのか」
「場所なんて、どこだって良かったんだ。ただ人間がいないところが良かった」
「人間に会いたくなかったのか」
「そうだね」
「オレにも?」
グリーンは、いつだって包み隠さずまっすぐに言葉を紡ぐ。それは僕にはできない技だった。
貫かれそうなほど鋭い視線に逃げ道を失い、僕は小さくうなずいた。
「ひどいな、オレにも会いたくなかったのか」
「会いたくなかったというより、君の場合は合わせる顔が無かった」
なんだそれと言いたそうに、今度がグリーンが首を傾げる。
「気がついたんだ。僕がいると、グリーンは笑えないんだって」
グリーンがいつだって僕を正しい方向へ導いてくれる。だけどそれがグリーンにとって正しい道だとは限らない。
僕が救われるのに比例して、グリーンは何かを失っているのではないのか。カントーでチャンピオンになった時、はじめてそんなことを考えた。
「オレのことお前が勝手に決めるな」
「だって、君はいつも無理をしている」
「……オレは」
その先は言わず、グリーンは先を歩いてしまう。
僕には、その背中を追いかけることしか出来なかった。
シンオウ地方は他の地方と比べると寒い土地だった。
雪山に籠っていたからか寒さに慣れている僕と違いグリーンにはここの気候は厳しいようで、度々寒いと駄々をこねるので手を繋いだ。
するときょとんと不思議そうな表情をするので、何か変だった?と訊けば彼は首を横に振った。
「良いんだけどさ。お前、それ素でやってんの?」
「うん…?」
「まあいいや」
うん、と何かに納得したらしいグリーンは一人頷くと繋いだ手をじいっと見て満足そうに笑った。
良かった。僕は今、正しいことをしているようだった。
———-
シンオウの次はイッシュ地方にやって来ていた。
そこで僕は、やっとあることに気が付く。
「そう言えば、グリーンってジムリーダーやってるんじゃなかったっけ」
風のうわさで聞いたことがあった。彼は今や立派にトキワのジムリーダーをやっている、と。
もし彼がジムリーダーであれば、一週間ほどならともかく数か月もジムを空けたままには出来ないはずだ。
なのにグリーンはこのイッシュに来るまで一度だってトキワどころかカントーにさえ帰っていない。連絡を取っている様子もない。
「まあ、そうだ…いや、そうだった、かな?」
「え、辞めちゃったの?」
「それに近いかも」
適当な返事をしつつ一緒に買ったヒウンアイスを舐めるものだから、そっか、と軽い返事しかできなかった。
「ジムリーダーって、思ったよりつまらなくてさ」
「そうなの?」
互いにアイスを食べながら、ゆっくりゆっくりと言葉を交わす。
「最初は楽しかったよ。いろんなトレーナーが来るし、毎日そこそこの相手とバトルできるし。でも」
アイスが少し溶け始める。
「結局、レッド以上の相手なんて現れなかった。だから、つまらなくなっちまった」
そう話すグリーンの目がきれいだと思ったのに、溶けたアイスが彼の手を汚した。
グリーンはいつだってきれいだった。容姿というより、彼がまとう空気がきれいだった。
そこだけ澄んでいるみたいに、近くにいると普段は困難な呼吸が楽になる。心臓の音がおだやかになる。
だからだろうか、彼を汚すもの全てを許せないと思うようになったのは、旅に出た11の時だ。
溶けたアイスに気が付いたグリーンが手を拭こうとするより先に、僕は身を寄せ彼の手をべろりと舐めた。
「なんで?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返すグリーンの姿を久しぶりに見た気がする。
「手、汚れてたから」
「そっか、うん、そうだよな」
逸らされた視線に、何故か寂しさを覚えた。
———-
カロス地方に来た時、ミアレシティの街の広さに驚いた。
今までだって大きな都市には訪れたことがあるけれど、ミアレはそれよりも広く、そして鮮やかな街だった。
人も建物もポケモンもとにかく多い。いろんな色やにおいが入り混じって、少しくらくらする。
「オレ、ここに留学してたことがあるんだぜ」
「そうなんだ。じゃあ詳しいね?」
「まあな、あっちに行けば…」
グリーンがある一点を指さした時、彼は「やべ」と小さく呟くと僕の腕を強く握り走り出した。
突然のことに驚き足がもつれそうになるが、人込みをかき分けなんとか転ぶことなくどこかの路地裏までやって来た。
「グリーン、急にどうしたの」
「いや、えーっと…」
どうにも歯切れの悪い様子の後、ため息をひとつ。
「レッドも気が付いてると思うんだけど」
「待って」
「…ぅむ!?」
何かを告げようとするグリーンの口を両手で塞いだ。その続きは、どうしてか聞いてはいけない気がしたから。
「理由なんて、やっぱりどうでも良いよ。グリーンがここにいてくれれば、それで良い」
苦しいと暴れられ手を離すと、呼吸を整えたグリーンが眉を寄せた。
「なんだよ、前まではオレに合わせる顔が無いとか言ってたくせに」
「それは、そうなんだけど。でも、どうでもよくなった」
「お前そればっかりだな」
どうでも良いとか、気にしないとか。
確かに、僕には細かいところを気にしないところがある。だけど、譲れないことだってある。
「だって、続きを聞いてしまったらまた君に会えなくなる気がしたんだ」
思っていたより大きな声が出ていたのか、グリーンは大きな目を見開き、そして困ったように笑った。
僕は、今日も、正しいことが出来ているのだろうか。
———-
カントーからアローラまでの道のりは、長くそして短いような気がする。いつのまにかグリーンとシロガネ山を下りて一年が経っていたのだ。
この南国の地方はまさに楽園と呼ばれるにふさわしい。観光客も多いからか、他の地方に比べるとどこよりも賑やかに思えた。
「オレ、ずっとレッドとアローラに来たかったんだよな」
「どうして?」
ビーチではポケモンも人もみんな遊んでいる。僕たちもそれにならい、波打ち際まで裸足で歩いた。
「ここって、世界の終わりって感じじゃん」
「そうかな、どちらかというと生気に満ち溢れている気がするけど」
「だからだよ。天国ってこんな感じかなって思える」
そう話すグリーンは服が濡れることなど気にしないといった風にばしゃばしゃと海水を蹴り上げる。
「天国と言えば」
僕も彼の真似をして海水を蹴り上げる。少し、楽しい。
「世界、滅ばないね」
「そう思ってるのはお前だけかもしれないぜ」
え、と振り向くと、顔に向かって海水をかけられる。
慌てて服で海水を拭い顔を上げると、意地悪な笑みを浮かべたグリーンがしたり顔をしていた。
「前に、ジムリーダーがつまらなかったって話したの、覚えてるか?」
「覚えてるよ」
「あれ、嘘じゃないんだけどさ。なんというか」
うん、とグリーンは一人頷く。僕は彼の次の言葉を待つ。
「オレにとって、レッドが世界なんだよ」
「ぼく?」
「お前がいない毎日は、つまらなくて…くだらない」
背中を向けられ、彼の表情が分からなく。できるならば笑顔でいてほしい。
「お前がいなくなって、夜が来るたびにオレの世界が一つずつ無くなるんだ。まるで死んでいくみたいに」
「そんなこと」
「色や音が徐々に無くなっていって、何も感じなくなるんだ。だからかな、ジムリーダーやってても楽しいって思えなくなったのは」
ぎゅ、と自然に手に力が入る。僕が、君を不幸にしたのか。
「もうどうなってもいいやって思ってシロガネ山に行ったらお前がいるし、なんでもなさそうな顔してるし、オレに黙ってついてくるし」
そこで振り返ったグリーンの顔は、なんの感情も持ち合わせていなかった。
「本当に、ここで世界が終われば良いと思ったんだ」
「…そう、なのか」
「勝手にジム飛び出して、ポケギアだってシロガネ山に投げ捨ててきた。誰にも邪魔されたくなかったから」
僕は、僕は、僕は。
言葉の続きが出てこなくて、ごくりと喉が鳴るだけだ。何か言わなければならないと分かっているのに、僕は君を笑顔にする言葉を持ち合わせていない。
いっそのこと泣いていてくれれば、その涙を拭ってあげられるのに。でも、泣いてるグリーンは嫌だな、笑顔でいてほしいんだ。
「どうすれば、笑ってくれる?」
「分からねえよ」
「僕は、どうすれば良い?」
「…レッド」
ちゃぷちゃぷと音を立てながらグリーンが近づいてくる。
そのまま、ぐいと首元を掴まれ顔を引き寄せられる。こんなにグリーンの顔を間近で見たのは、子どもの頃彼の家に泊まって一緒に寝た時以来かもしれない。
触れる唇も重なる影も、いつの日かの記憶の断片のようでまるで夢を見ている様だった。
何か言いたそうな彼を、やっぱり僕はきれいだと思った。彼の不幸にする世界も、自分も何もかもこの世には不要で、この世界さえも存在しなくて良いのかもしれない。
「僕は、君を幸せにしたい」
「はは、なんだよそれ…」
吐息がわかる程の距離で言葉を交わし、くすぐったい感覚が全身を覆う。
ようやく離れた顔を残念そうに見つめると、そっぽを向かれてしまった。
「お前をシロガネ山から引っ張り出した日に、オレは死んだようなもんだ」
そう吐き捨てるグリーンの腕を両手で握った。
「僕だって似たようなものだろ」
「…そうだな。こんなのじゃ駄目だって、分かってたのに」
「駄目なんかじゃない。だって」
グリーンはいつだって正しいんだ。
そう言えば、彼の目からはぼろぼろと涙が溢れだしてしまった。まただ、また彼を不幸にしてしまった。
「なんでだよ、なんでオレの言うことなんか聞くんだよ」
そこで、頭の中がすうっとクリアになる。グリーンが僕に伝えたかったこと、僕がグリーンに伝えたかったこと、全部が分かったような気がした。
「君が、僕にとっての世界だからだ」
涙を拭おうとして手を弾かれた。
だけどその直後グリーンに勢いよく抱き着かれバランスを崩し、二人して海面に倒れてしまった。
「…危ないよ」
上半身を起こすとグリーンもすぐに起き上がった。
「泣いてるところ、見られたくない」
全身ずぶ濡れで確かに涙は分からないが、目が赤いのですぐに泣いているとは分かってしまうが黙っておいた。
いつの間にか夕日は沈みかけており、青かった海はすっかり赤に染まっていた。
「オレ、お前が好きだった」
そう呟くグリーンは、遠くの夕日を見つめていた。
「過去形?」
「死んじまったからな」
「じゃあ、僕も君が好きだった」
「なんだよそれ」
軽口に互いに笑いあう。夕日が沈んでも、この世界が滅ぶことはない。
それにこの世界が終わっても、また新しい世界が生まれる。
僕たちにとって、ただそれだけだった。