キリング・ミー

「天使だ」
見慣れた部屋に突如現れた影。
太陽のように明るい金髪。澄んだ青空のような瞳。少し高めの甘い声。
紛うことなき天使。そう確信して発した一言だった。
だがその天使は、満面の笑顔でこう言った。
「残念、悪魔でした!」

自分のことを悪魔だと言った男は、プロンプトと名乗った。
俺の前に現れた理由は、俺が自分の命に無頓着な人間だからとのことだ。
つまりは簡単に命を差し出してくれる人間を探していて、そこで標的になったのが俺だった。
プロンプトの目的は人間の命を集めること。その方法は、なんでも願いを一つ叶える代わりにその願いの重さに比例した命を奪う、らしい。
何故こんな悪魔の話を真面目に聞いていられるかと言うと、このプロンプトと言う男、あまりにも外見の印象から害が無いように見えるのだ。
見た目は普通の人間と変わりないし、違うところと言えば背中に小さな黒い悪魔の羽があるぐらいだ。
実際は知らないが外見からして俺と同い年のようにも見え、妙な親近感もある。
いきなり自室のど真ん中に現れた時は驚いたが、恐怖よりも何よりも「綺麗だ」と思ったことが俺を冷静にさせている。
しかも自己紹介をされたところでずっと宙に浮いているのも辛いだろうと思い、律儀に床にクッションを置いて座らせてやったぐらいだ。
プロンプトもプロンプトで「ありがとうございます」と何故か申し訳なさそうにちょこんと床に座るものだから、逆にこっちが緊張してしまう。
俺はと言えば腕組みをしてベッドに腰掛け、少し上から床に座っているプロンプトを見下ろしながら話を聞いていた。これではどちらが悪者か分からない。(プロンプトを悪者と言いたいわけではないが)
そしてここまで説明してもらって悪い気もするが、俺にはこれと言って叶えてほしい願いなど無かった。
実家から離れた大学を受験し、入学後はアルバイトで生活費を稼ぎながら一人暮らしをしている。
と言っても親からの仕送りもあったので金には困ってない。勉学にも適度に励んでいるので今では無事に2年生へと進級している。
それについこの間二十歳の誕生日を迎え、いよいよできることが増えたと思ったところだった。
そんな状態で命を代償に願いを叶えたいと思う人間などいるのだろうか。
そのことを正直に伝えると、プロンプトは不安げに瞳を揺らして「なんでもいいですから、なにかお願いをしてもらえませんか…」と悪魔らしからぬ表情で俺をじっと見つめていた。
この目が、駄目だったのかもしれない。俺は次の瞬間「じゃあノクトって呼んで」などと口走っていた。
「えっと、…ノクトさん?」
「さんも取って」
「…ノクト?」
首をかしげながら俺の名前を呼ぶ悪魔は正直言ってクるものがあった。本人には言わないが。
「今のが願い一つめ」
「一つめってことは、もっといっぱいお願いしてもらえるんですか?」
「する。ちなみに願い二つめは俺に対して敬語禁止な」
「えぇ?」
少々困惑気味の悪魔に、もう少しこの命の取引のルールを聞いた。
願いの重さに比例して差し出す命の量が変わるが、この判定はプロンプト自身が行うらしい。つまりプロンプトが簡単な願いだと判断すれば、奪われる命の量も少なくなる。
また俺の残りの寿命を上回るような願いは取引不成立となるため叶えられないらしい。だが取引相手の残りの寿命を教えることは禁じられているとのことだった。
ちなみに先ほどの願い二つだと、合計で1日と6時間の命を取られているらしい。願いを叶えてもらう前に、これから願うことに対してどれだけの命を差し出さねばならないのかを聞くことは許されているので、事前に確認さえすればちょっとしたお願いはできるかもしれない、と言うのが俺の判断だった。
未来に不安を抱いているわけでも自殺願望があるわけでもないが、多少の命でこの可愛い悪魔が俺の言うことを聞いてくれるのだと心を躍らせる程度に俺は自分の命に無頓着な男だった。
ここまでルールを説明をして俺に願いをたくさんしてもらえると思ったらしいプロンプトは、先ほどまで曇っていた両目をキラキラ輝かせて「なんでも言ってね!」と微笑んだ。
さて次はどうしたものか、と考え出したところで、腹の虫がぐぅ、と情けない声を上げた。
「なあ、一緒に飯食うか?」

プロンプトを連れてリビングに行き、冷凍庫から飾りっ気も何もない冷凍食品を取り出した。
二人分を温めようとしたところで、一緒にご飯を食べることはどれくらい命を取られるのかを尋ねた。
するとプロンプトは首を横に振り、これは命を取らないと言った。
理由は、プロンプトも腹が減っているから、らしい。つまりは俺の願いとプロンプトの願望が合致していれば、命の取引は無しということだ。
それを聞いて安心した俺はあらためて二人分の冷凍食品を温め、少し遅めの夕飯をとることにした。
メニューは少し味の濃い炒飯だった。テーブルを挟んで向かい合うように座ると、真正面のプロンプトの顔がはっきりと見えた。先ほどはあまり顔をまじまじと見ることは無かったが、いざしっかりと見て見ると整った顔立ちをしているように思った。
色白の肌に少し散ったそばかすが愛らしいと思った。感情豊かに表現する顔のパーツが愛おしいと思った。この悪魔、実はインキュバスなのではと思うほど自分の好みの的を得ていた。
しかし悪魔と共に夕飯を食べる日がくるとは。人生何があるのか分かったもんじゃない。
プロンプトは夢中で炒飯を頬張っていた。悪魔ではあるがきちんと実体化しており、何に対しても干渉できるようだ。
「他の人間にもお前の姿って見えんの?」
「見えないよ。俺のことが見える人間は、今のところノクトだけかな」
他にも契約者が出来たら、その人間もプロンプトの姿が見えるようになるらしい。
「場合が場合なら同時契約もするよ。俺は人間と契約するのが初めてだから、ノクトしか見える人がいないんだけど…」
なるほど俺が初めてなのか、という優越感の直後、今後現れるであろう別の契約者を想像して苛立ちを感じた。
「なあ、俺以外の人間と契約するなって願うとどんくらい命取られるんだ?」
「それはノクトの寿命じゃ無理。というか、悪魔の一生を背負うまでの命持ってる人間なんて、まずいないよ」
それもそうかと思ったが、納得はできなかった。
どうすればこの悪魔を自分のもとに留めておけるのか。答えは簡単だ。もっと願いを言えば良い。

次の願いは「一緒にゲームがしたい」だった。
この願いでは5時間ほどの命を取られるが、それより俺はプロンプトと一緒にいたかった。
何かやりたいものはあるかと手持ちのゲームのパッケージを並べると、プロンプトが選んだのは丁度テレビの前に置いていた対戦型FPSだった。
操作方法を教えある程度自由に遊ばせてみると、初めは覚束なかった操作もみるみるうちに上達していった。
ノクトこれ面白いね!と笑うプロンプトの笑顔がもっと見たい。どうすればこの悪魔は、ずっと笑っていてくれるのだろう。

夜一番の願いは「一緒に寝る」だった。やましい意味など一切無く、言葉通り同じ布団で眠ることだ。
この願いにも少ないながらも俺の命はプロンプトへと渡った。
二人でベッドに潜り込むと、プロンプトは少し困ったように「本当にいいの?」とか細い声で言った。
お互い向き合うように横になると、視線がぶつかった。少し気恥ずかしい。
「ノクトの願いなら叶えるけど、これでいいの?なんだったら巨乳の美女に化けることだってできちゃうんだよ?」
そんなのいらない。お前だから一緒に寝てる。とは言えない自分が情けない。
「別に、一緒に寝た方があったけーし」
「ふーん。ノクトって変わってるね」
へへ、と笑う顔が目の前にある。その柔らかそうな頬に触れることに、許可はいるのだろうか。
「あんまり大きなお願いしてこないけど、もっと何か無いの?たとえば、好きな子を振り向かせたいとか」
「今は、必要ねーな」
「ええー、つまんないなー。ノクトかっこいいからモテそうだし、俺に叶えてもらうまでもないとか?」
プロンプトの目には俺がかっこいいと映っているらしい事実にとりあえず安堵した。
そして、つい意地悪なことをしたくなるのが俺の悪い癖だ。
「俺のどこがかっこいいと思った?」
言うと、プロンプトは一瞬で顔を赤くして俺から視線を外した。
「えーっと、それは、お願いにカウントされちゃうけどいいの?」
「いいよ。だから正直に言えよ」
命を差し出すことを条件に、ぽつりぽつり、とプロンプトが俺のことを語った。
「…その辺を飛んでたら学校帰りのノクトを見つけて、かっこいい人だなーって思ったんだ」
「契約するならこんな人がいいなって思ってたら、上手くいきそうな感じだったから、そのまま家までついて行っちゃって」
「俺と契約してくれるし、優しいし、俺、ノクトで良かったって思ってるよ」
そこまで言うとプロンプトは「もう終わり!」と叫んで枕に顔を埋めてしまった。この辺で許してやるか。
明日はもっと俺のことを好きにさせてやろうと意気込み、夢の中へ落ちていった。

カーテンの隙間から光が漏れ、朝の訪れを告げる。
もうそんな時間か。アラームは鳴ったのだろうか。まぁいいか、まだ寝ていよう。
ごろりと寝返りをうつと、目の前には悪魔の笑顔があった。
「おはよう、ノクト」
脳が溶けてしまいそうな甘い声に、俺の眠気はすっかり吹き飛んでしまった。


「ふふ、ノクトの寝顔、意外とかわいーね」
そんなことを言いながら隣で寝ているプロンプトは、俺の顔を見て頬を染める。
朝から刺激が強すぎるのではないだろうか。おかげで朝の優雅な二度寝のタイミングを完全に逃してしまった。
もう眠ることは無理だと決め目をこすると、寝ころんだままふわふわの金髪をいじる悪魔がいる。
今なら触れても何も言われない気がして、そっと手を伸ばしたところでピピピとアラームが鳴り手を引っ込めた。空気読めよ、俺のスマホ。
「ほらほら起きなきゃ遅刻するよ」
言いながらプロンプトは起き上がり、未だ布団から出ようとしない俺の腕をぐいぐい引っ張る。
そうだ、昨日は休みだったが今日が授業がある。学生である俺は学校へ行かねばならない。
頭では分かってはいるが、体がついて行かない。昔から寝起きが悪いのだ。
「なんでそんなに朝から元気なんだ…」
「悪魔には朝も夜も関係ないからね」
そうなのか、知らなかった。知っている方が驚きだが。

なんとか身支度を終えた俺はプロンプトに「行ってきます」と言い残し、急いで家を出た。
その結果、遅刻ギリギリのところで大学の講義室へと滑り込むことに成功した。間に合った安堵感からどっと疲れが出る。
既に講義室は多くの学生で溢れかえっていたため、丁度空いていた入口から一番近い席に座った。
そしてふと隣を見ると、当たり前のように隣の席にプロンプトが座っていた。
「おまえっ……」
なんでここに、と言おうとして慌てて口をふさいだ。俺以外の人間にはプロンプトの姿が見えない。つまり俺がこの悪魔に話しかけると、周りからは独り言を喋る変人に映ってしまう。
「なんでここに、って顔してるね?」
頬杖をつき目を細めたプロンプトがニヤニヤした顔で俺を見ている。そんな顔もかわいいと思うが今は関係ない。
「ノクトの傍にいないと、お願い叶えてあげられないじゃん。だから着いてきちゃった」
何が着いてきちゃった、だ。俺をどうしたいんだ、この悪魔は。
大げさにため息をつき、とりあえず講義を受ける準備を始める。
プロンプトはずっと「大学ってはじめて来た!」とか「人がいっぱいいる!」とか一人ではしゃいでいて、とてもじゃないが勉学に励む気に慣れない。
講義が始まり、室内から雑談は消え担当講師の声だけが響き渡る。
静かな空間に退屈したのか、プロンプトは「ちょっと散歩してくる」と言い残して出て行ってしまった。おい、俺の願いを叶える為に着いて来たんじゃなかったのか。
とりあえず講義に集中しよう…としたところで、同じ科目を履修している女子生徒からスマホへメッセージが送られてきた。
別にあとで確認しても良かったのだが、前を見るとこのメッセージの送信者である女子生徒がこちらに小さく手を振っているのが見えた。
ここで無視するのも悪いと思いメッセージを確認すると、遅刻ギリギリのところで講義室へ入ったところを見られていたらしく、そのことについて当たり障りない内容が書かれていた。
真面目に返信をするのも面倒で寝坊したとだけ書いて送信をした。これだけではさぞ冷たい人間だと思われるだろうから、あとで適当に挨拶しておこう。
昔から興味のない人間と関わるのが億劫だった。他人からの評価などどうだって良かったが、集団生活の中ではそうはいかない。
無理のない程度に愛想笑いを振りまき、適当に相手をすればいい。好意を向けられることは嬉しいが、俺はそれを望んでいないのだ。
冷たい人間だと言われればそれまでだが、別にすべての人間に対して無関心なわけではない。俺だって他人に興味を抱くときはある。
多くは無いが親しい友人もいる。そして今は、絶賛同居中の悪魔のことが気になって仕方がない。
あいつ、散歩ってどこに行ったんだろう。あとで迎えに行ってやらないと。ここ広いから迷子になってねーかな。
そんなことを考えていると、やっと長いような短いような講義が終わった。さあプロンプトを迎えに行くかと立ち上がったところで先ほどの女子生徒が話しかけてきた。
「さっきのメッセージなに?いつにもまして冷たいじゃん」
しっかりと化粧を施された顔に張り付いた嘘くさい笑顔の上に、真っ赤なリップの塗られた唇が弧を描いている。
女子って皆朝からこんな張り切って化粧してんのかな、すげー早起きじゃん、男で良かった、等と考えていると「聞いてる?」と不機嫌そうな視線を送られた。
「あー、ちょっと寝不足で…」
さてどうやって切り抜けようかと模索していると、空いていた入口の向こう側に廊下を歩くプロンプトの姿が見えた。
「ごめん、次も講義あるから」
まだ何か喋っていた女子生徒を残し、慌てて廊下へと飛び出した。次も講義があるなんて嘘だ。とにかく早くプロンプトを探さねば。
辺りを見渡すが、さっきまで確かに廊下にいたプロンプトの姿が無い。丁度講義を終えた生徒で人通りが多く、あの目立つ金髪をなかなか見つけられない。
もうここにはいないのかもしれない。悪魔だったら壁だってすり抜けられるだろうから、まったく別の場所に移動したのかも。
何も今すぐプロンプトを見つけなければならない理由なんてない。家に帰るとなんでもない顔でおかえりと出迎えてくれるかもしれない。
それでも俺は不安でたまらなかった。理由はたった一つ。俺以外の誰かが、プロンプトに命を差し出してしまうかもしれないからだ。
そんなことさせてたまるか!しかしこうしている間に、大した願いをしない俺に嫌気がさしたプロンプトは別の契約者を探しに行ってしまうかもしれない。
悪魔にも通信機器を持たせられればいいのに。そうすれば、いつどこだでだって帰って来いと言えるのに。
プロンプトを探すことに疲れた俺は、一旦中庭のベンチへ行くことにした。ここだと休憩が出来るし、廊下を通り過ぎる人たちを観察することが出来る。運が良ければプロンプトを見つけられるかもしれない。
さあ長い戦いになりそうだとベンチに腰かけたところで、それが杞憂であったことに安堵した。ベンチのすぐ傍の木陰に、野良猫と戯れるプロンプトがいた。
夏の終わりの緑と土の匂いが広がる中庭には、俺と迷子の悪魔と数人の生徒しかいない。生徒の位置もやや遠いところにあることを確認して、俺はこちらに気が付いているのか怪しいプロンプトに声をかけた。
「こんな所にいたのか」
そこでやっと俺に気が付いたらしいプロンプトが振り返り、「お勉強終わったのー?」なんて気の抜ける返事をしてきた。こっちがどんだけ苦労して見つけたと思ってるんだ。
プロンプトは猫を両手で抱えると、まるで人形にするように猫の片手をこちらに振るように動かし「おかえりー」などと言っていた。
「猫にはお前が見えんの?」
「さあ?でも触ってもびっくりしてないから、気配ぐらいは分かってるんじゃないかな」
猫は猫でニャアとなんとも気の抜ける声で鳴くと、するりとプロンプロの手から逃れどこかへ行ってしまった。
「あーあ、せっかく口説いたのに」
遠ざかる猫の背を見送り、プロンプトはオーバーにやれやれと肩をすくめてみせた。
「この後はどうするの?」
「ああ、今日は1限だけ。レポートしなきゃなんねーからもう帰るけど」
じゃあ一緒に帰ろ、とプロンプトは俺の手を掴む。俺としても、一刻も早くこいつを人目のつかない所(俺以外には見えないんだけど)に連れて帰りたい。
「家に帰ったら、昨日みたいにいっぱいお願いしてね。どんなことでも良いから」
にこりと悪魔が微笑む。その瞬間、どうにも心がざわついて仕方が無かった。
ノクト手汗すごいと言われたので熱いからだと返しておいた。本当はお前のせいだ、責任とってくれ。

家に帰る途中、快晴だった空は雲に覆われ、雨が降る前の独特のにおいが鼻をかすめた。
生憎傘を持ち合わせていなかったが、家にはあと15分もすれば着く。それまでは持ちこたえてくれるだろう。
そう踏んでいたのだが、俺の予想は外れた。5分もしないうちに土砂降りの雨が降り始め、アスファルトが黒く染まっていく。
辺りを見渡すが近くにコンビニ等は無く、傘を変えるような場所は見つかりそうもない。
既に自分はずぶ濡れなので諦めていたが、プロンプトはどうだろうかと先ほどまで隣をふわふわ飛んでいた悪魔は何故かキラキラした両目でこちらを見ていた。
「ね、ね、ノクト、雨止ませてあげよっか?そんで服も髪も一瞬で乾かしてあげる。どう?」
安いセールストークは無視して、プロンプトの手を握り俺は走り出した。そんなことに己の命を使ってたまるか。
後ろからずっと「なんで無視するのー!?」と不満そうな声が聞こえていたが、とにかく今は一秒でも早く家に帰りたかった。

途中道路を走るトラックのタイヤが跳ねた水がかかったり躓いて転びそうになったりもしたが、走ったおかげで数分の内に我が家へ帰ることが出来た。
入口を施錠し一緒に帰ってきたプロンプトを見ると、自分と同じく濡れ鼠へとなってしまっていた。
金髪からしたたる雨がぽつりぽつりと玄関を濡らしていく。こんなどうしようもなくずぶ濡れ状態でも悪魔は美しかった。
肩を出した服装をしているからなのかは知らないが、プロンプトは少し寒そうに自分の肩を抱いた。
「そこで待ってろ、タオル持ってくるから」
服の裾を絞りある程度の水を落とすと俺は急いで風呂場へ向かった。バスタオルを手に取って玄関戻り、大人しく待っているプロンプトの頭へかぶせて無造作に拭いてやった。
わしわしと頭を拭いている途中で、プロンプトが小さな声で言った。「どうして願いを言ってくれなかったの?」と。
タオルで顔が見えないが、プロンプトはきっと悲しそうな顔をしている。絶好の機会だったのに、契約者に無視されれば怒るのも当然か。
「お前に、もっと叶えてもらいたいことがあるから」
口から出まかせなどではなく、これは立派な理由の一つだった。天気より、自分の服より、俺はプロンプトに叶えてほしいことがある。
「それは…たくさん命を使ってしまうお願いなの?」
「そうだな、たぶん、そうだと思う」
「どんな、願い?」
プロンプトがタオルを手で除け、まっすぐ俺の目の見る。
俺が死ぬまで俺の傍を離れないでほしい。このたった一言が喉につっかかったように、なかなか出てこない。
死ぬまででいい、生きている間だけでいい、その時間だけ俺のものになってくれ。
でも頭で練った言葉が声になることは無い。視線だけでこの悪魔に伝えられればいいのに。
しばらくの無言の後、プロンプトは小さく噴き出した。
「あはは、ノクト変な顔!」
うるさい、お前のことでこんなに必死なのに。
「いいよ、ノクトの好きな時に好きなこと願ってくれれば。俺、待ってるから」
幾分か声が明るくなったプロンプトは、俺からバスタオルを奪い取ると俺の頭に被せて乱暴に拭い始めた。
「これはサービス!次からはお願いしてね」
適当に髪が乾いたところでプロンプトはパタパタとリビングに向かってしまう。
その恰好のまま家に上がられては廊下が濡れる心配があったが、よく見ればプロンプトは雨にあったのが嘘のようにどこも濡れていなかった。
「ノクトははやくお風呂に行っておいでよー」
リビングからプロンプトの声が聞こえる。あいつが濡れたままだったら一緒に風呂に入ろうとも言えたのに。

その夜、レポートを適当なところで切り上げた俺は最近買い換えたばかりのデスクトップ型のパソコンの電源を落とすと、近くのソファでゴロゴロしていたプロンプトに「もう寝る」と告げた。
するとプロンプトは不機嫌な表情を隠そうともせず「えぇー」と声を上げた。
「お願いはないの?それかゲームしないの?」
「寝る。明日も早いんだ」
「ふーん…」
つまんないの、と言い残して部屋から出ようとするプロンプトの腕を俺は慌てて掴んだ。
「どこ行くんだよ」
「だって寝るんでしょ?」
「願いをしないとは言ってない」
俺はわけが分からないといった顔のプロンプトを肩に担ぎ、そのままベッドに放り投げた。
何故抵抗をしないんだと不思議に思ったが、そんなことは関係ない。
「え、え、ノクト?」
「今日も一緒に寝る。あと、追加もある」
「追加?」
「今日は疲れたから、……クッションの代わりになれ」
言うが早いか、ベッドに入るなり無防備なプロンプトを抱きしめた。あたたかい。背中の羽と命を欲しがること以外、人間と何が違うのだろう。
「いいけど、命取るよ」
「いーよ…いくら取るんだ?」
「い、1時間…くらい」
俺の記憶が正しければ、昨日の一緒に寝る願いでは2時間ほどの命を取られた気がする。願いを追加している今回の方が取られる量が少ない、ということは。
「俺と寝るの、嫌じゃないんだな」
「その言い方なんか気になるけど、うん、嫌じゃないかなぁ」
腕の中で納まっているプロンプトは随分と大人しい。すん、とふわふわの髪に鼻を寄せると甘いにおいがする気がした。
抱きしめた感触は柔らかい。背丈は俺より少し小柄なぐらいで大して変わらないのに、実際より少し小さく思える。
体だって貧弱なわけではない、そこそこ筋肉のついた綺麗なシルエットをしている。
女と見間違えるほど華奢なわけではないし、童顔なわけでもない。なのにどうしてか、俺を魅了する何かを持っている。
輝く金髪、透き通った目、夢のような笑顔。お前はそれを俺に願いを言わせる為に用意してきたのか?
「ノクトって、やっぱり変だよ」
それ昨日も言われたな、と思いながら目を瞑って静かにプロンプトの声に耳を傾けた。
「俺が悪魔だって言っても怖がらないし、俺にこんな良くしてくれるし、それに、どうして…」
きゅ、とプロンプトが俺を抱きしめかえす。
「どうして、こんなにドキドキしてるの?」
胸の鼓動はしっかりと伝わってしまっているようで、今更それを隠す気もなかった。
腕の中の悪魔は、少し震えていた。
「さぁ…どうしてだろうな」
理由を話したところで、お前は応えないだろう。願いじゃない限りは。
「俺知ってるよ、ノクトのこと好きな人っていっぱいいるんだ。皆ノクトに夢中なんだよ。でも、それでもノクトは、俺を大事にしてくれるんだね」
今日の大学での出来事を見ていたのだろうか。
他人からの好意など必要ない、欲しいものは目の前にある。こんなに近いのに手が届かないのがもどかしい。
「欲しいものは、俺が決める」
返事は無かったが、もう一度プロンプトを強く抱きしめた。
そのまま深い眠りに落ちる前に、優しく抱きしめ返された気がした。

その日は最悪な目覚めから始まった。
まるでトンカチで殴られているように頭が痛いし喉はがらがら。更に全身が熱く、まるで体が大火事になっているようだった。
端的に言うと風邪をひいた。昨日雨にあたったことが原因だろうか。
スマホからアラーム音が鳴っているがベッドの中で腕を動かすことも億劫で、隣で眠っているプロンプトに声をかけた。
「…アラーム、切ってくれ」
質の悪いスピーカーを通したような酷い声しか出なかったが内容はきちんと伝わったようで、すでに起きていたプロンプトからすぐさま「いいよ!」と元気の良い返事が返ってきた。
3分のお命頂きます、と言いながらプロンプトは素早くアラームを切った。これにより俺のカップ麺を温める時間は失われたわけか。
その後の俺は起きる気力もなかったのでベッドの中で頭で今日の予定を組みなおしていた。大学は休んでも問題ない、1日休んだところで単位は大丈夫だろう。運がいいことにバイトのシフトも入っていない。
すると隣の悪魔が「学校行かなくていいの?」と服の裾を引っ張ってきた。
「今日は、休み…一日寝てるから」
「うわ、すごい声だね。どしたの?」
「風邪ひいた」
「ノクト、死んじゃう?」
「死んじゃわない」
それだけ言って、プロンプトに風邪をうつしてはいけないと思いベッドから追い出した。悪魔も風邪をひくのかは知らないが、とりあえず今は一緒にいない方が良いだろう。
布団をかぶりなおして少し寝てから適当な食料と薬を胃に入れようと決めたが、横からは弱々しい声が俺の安否をうかがっていた。
「大丈夫?ノクトがお願いしてくれたら、風邪治せるよ?」
「…願わない」
今度は少し強めの声で「なんで」と問われる。そんなの、決まってるじゃないか。
「俺の願いは俺の為に使わない」
「じゃあ、何に使うの」
「お前と一緒にいる為に使う」
さらっとこんなことを口走ってしまったのは、風邪で弱っているからだろう。きっと。
ちらりをプロンプトを見ると、今にも泣きそうな顔をしていたのでぎょっとした。
「ノクト死んじゃったら、もうお願いしてもらえないじゃん。それって、俺とも一緒にいられないってことだよ」
震えた声でそんなことを言われてしまい、とてつもなく悪いことをしてしまったような気分になる。悪魔を泣かせた人間って俺が初めてかも。
「風邪じゃ死なねーから…」
「そんなの分かんないよ」
「じゃあ」
なんとかベッドから伸ばした手で、プロンプトの白い手を握った。
「俺が寝るまで、手ぇ握っててくれないか」
プロンプトはきょとんとした表情になるが、すぐによく分からないと言いだけに眉を寄せた。
「いいけど、それじゃあ風邪は治らないよ」
「俺にはこっちのが効くから」
「ノクトがそう言うなら…」
両手でふわりと優しく包み込まれ、感覚的なものかもしれないが少し体調が落ち着いたように感じた。
一人暮らしをしているかもしれないが、弱っている時に傍に自分以外の体温があるのはとても心地良い。
カーテンが閉まっているので室内は暗いが、眠る間際に見たプロンプトの表情は明るかったように思う。
このまま眠ってしまおう。今ならきっと良い夢が見られるだろうから。


次に目が覚めたのは、正午を過ぎた頃だった。
手には眠る前と同じ柔らかい感覚がある。プロンプトはずっと握っていてくれたのだろう。
体調の方は、朝よりかなり良くなっている。
いや、良くなっている、というよりかは完治に近い。体のだるさが全くない。声も正常に出る。
しばらく眠っただけでここまで回復するのはおかしい。慌てて体を起こしプロンプトを見ると、俺の手を握ったままベッドの脇に頭を乗せて眠っていた。
空いているもう片方の手で肩を揺すって起こしてやると、目をこすりながらふにゃふにゃと笑っていた。
「あれーノクト、元気になった?」
「元気っつーか、お前何したんだよ」
これは明らかにプロンプトの仕業だろう。そうでないと説明がつかない。
「えっと…ごめん、勝手に治しちゃった」
しゅん、とプロンプトが肩を落とす。それと同時に手を離されてしまい、少し寂しさを感じる。
「それはもう良い。なんで勝手にやった。命、どんくらい取ったんだ」
つい強めの口調になってしまい、プロンプトがびくりと震える。
やってしまったと思ったが、すう、と一度深呼吸をしたプロンプトは「あのね」と静かに喋りはじめた。
「俺、命取ってない」
「取ってないって、じゃあどうやって治したんだよ」
「ごめん、ノクトに言ってないことがあるんだ」
プロンプトの言い分はこうだった。
俺が弱っているのを見ていられなかった。だから願われずとも勝手に風邪を治した。
命を取っていない理由は、これは俺の願いではなくプロンプトが勝手に行ったことだから。プロンプトが俺の意思とは無関係に行ったことに対しては命は取らないらしい。
普通は悪魔と人間の間でこんなやり取りは生まれない為話さなかったらしいが、今回はその「こんなやり取り」が発生してしまったのでプロンプト自身も困惑しているそうだ。
「命取らないから良いって思ったんだ。でもノクト、あんまり嬉しそうじゃないし、勝手なことしちゃったのなら…」
ぼそぼそと喋るプロンプトがそのままどこかへ行ってしまいそうで、頭を抱き寄せ少し元気のない金髪をめいっぱい撫でてやった。
「迷惑なもんか。お前が俺の為にやってくれたんだろ。俺こそ変な意地張って悪かった」
俺の勝手で愛しい悪魔が深く落ち込んでいる。こんなこと許されないだろう。
腕の中のプロンプトはしばらく大人しくしていたが、しばらくして俺を押し返すと背中の羽を羽ばたかせ宙にふわふわと浮いた。
「ノクト、自分がおかしいって思ったことない?」
高いところからそう言う悪魔の目は真剣そのものだった。
「たとえば自分が危ない薬におぼれていて、そのせいで悪魔っていう幻覚が見えてるとかさ。それに自分以外に見えない悪魔なんて、願いを叶えてくれる悪魔なんて、どうして信じられるの?どうしてノクトを騙してないって言えるの?」
そこまで一気に捲し立てたプロンプトの目には涙が浮かんでいた。俺にも羽があればすぐに傍まで飛んで行って、その涙を拭ってやるのに。
「俺の言うことなんか簡単に信じちゃ駄目なんだよ、ノクトは、もっと普通の人間の幸せが」
「プロンプト!」
大声で名前を呼ぶと、プロンプトは律儀に「はい!」と返事をした。
「何を信じようと俺の勝手だ。それにお前、嘘ついてたのか?」
「嘘は、ついてない…」
「だろ。しかも普通の人間の幸せが何か知らねーけど、それをお前が勝手に決めんな。言ったろ、欲しいものは俺が決めるって」
来いと言わんばかりにベッドの脇をぽんぽんと叩くと、プロンプトは大人しく降りてきてそこに座った。何故か緊張している様子で体が強張っている。
「俺の願い、聞きたいんだろ」
もっとこの悪魔のことが知りたい。俺のことを好きにさせたい。この願いは、命がいくつあれば叶えてくれるんだ。
ゆっくりとこちらを向いたプロンプトの手を強く握る。今度は逃がさない。
「お前が欲しい、プロンプト」


********************


気が付いたら俺は悪魔で、今までどうだったかなんて全然覚えてなくて、それでも自分のやらなければならないことは分かっていた。
人間の命を集めるなんて、どうしてそんなことをしないといけないんだろう。
それがなんの為だなんて分からないが、俺が存在する理由はその為だけにあるらしい。ならば、それを実行しなければならない。
一番初めにやって来た街は人が多く、誰に接触すれば良いのかなんて分からなかった。
スクランブル交差点を通る人々を上から見ているが視界が全く追いつかない。もう少し人の少ないところに行こうと、人通りの少なそうな路地へと入った。
裏路地を抜け、少し薄暗い場所へ出た。建物に囲まれ丁度日が当たらない場所らしく、店先の派手な看板のライトがやけに目立っていた。
ビール瓶の入った箱の上を野良猫がお昼寝をして陣取っていたが、その隣が丁度空いていたので座らせてもらった。猫は気にしていないようだ。
ピシッとスーツを着こなすサラリーマンや学校帰りの制服姿の少女等、ここを通る人は様々であった。どうしよう、ターゲットが全然決まらない。
そんな時、一人の黒髪の男が少し遠くのゲームセンターと書かれた看板をつけたお店から出てきた。
背丈は俺より少し高いくらい。俺の美的感覚が正しいのかわからないけど、顔も整っていてかっこいいと思った。
男は随分とラフな恰好をしていたが、際立つ容姿が他の人間よりも彼をキラキラとさせている気がした。
その男は後から出てきた数人の友人と思われる人間と店先で別れを告げ、一人でこちらに向かってきた。人間には俺の姿が見えないが、少し体が強張る。
すると隣で眠っていた猫が飛び起き、その男の足元へ駆け寄ると頬をすりすりとこすり付けていた。
「何だお前、またこんな所にいたのか」
男はその場にしゃがむと猫の頭を優しく撫でた。低すぎず高すぎもしない優しい声が心地良い。ごろごろと喉を鳴らす猫も気持ちよさそうで、何故だか少し羨ましい。
猫は彼と知り合いなのか、随分と懐いているようだった。深い青色の目を細め、楽しそうに猫を撫でる男の笑顔をもっと見たいと思った。猫のように俺も触れられたい、名前を呼んでほしい、こっちを見てほしい。
俺はすぐにこの男のデータを調べた。あわよくば契約が出来ないかと考えたからだ。
実際のところ、命のやり取り等どうだって良い。でも取引をしなければこの男に自分を認知してもらえない。それはきっと、この上なく寂しいことだ。
指先で宙を切ると、彼のデータが目の前に浮かんでくる。名前、ノクティス。親しい相手からはノクトと呼ばれている。誕生日、8月30日。二十歳。身長、176cm。好きなことはゲームのハイスコアを更新すること。今日も最近お気に入りのゲームのハイスコアを上書きした帰りのようだ。
更には彼は、今までの行動から割り出したデータによると己の命にあまり固執していない。例えば目の前で見ず知らずの子どもがトラックに轢かれそうになれば身を挺して守ってやるだろう。
目的の為には自分の命も喜んで出しだすタイプのようで、これなら上手くいきそうだと思わず笑顔になった。
さて、問題なのはノクティスの寿命。これから命を貰わねばならない相手だ。この先一ヶ月で死亡であっては困る。
だけど俺は寿命の欄を見ようとして、やめた。
命のやり取りはどうだって良い、それは本当だ。彼の寿命が残り一ヶ月だろうが一日だろうが関係ない。もし明日死ぬなんてことあれば、俺がその運命を捻じ曲げてやればいい。
不慮の事故であるなら守れば良い。病気であるなら治せばいい。どれにしろ、俺にはその全てが可能だ。
自分が悪魔に生まれたことに悩みもしたが、彼にこんなことをしてあげられるのはきっと俺だけだ。他の誰でもない。その事実がどうしようもなく嬉しい。俺はノクティスと契約をすることに決めた。
猫を撫で終え満足したらしい彼は立ち上がると、家に帰るのか表の通りへを向かって歩き始めた。
俺は椅子にしていた箱から飛び降り、ノクティスと並んで歩いた。勿論彼には俺が見えないから、完全に自己満足だ。
「はじめまして、ノクティスさん。俺プロンプト」
声をかけても反応は無い。無表情のまま、まるで王子様のようにキラキラと輝く男はこちらを見ることなく歩き続ける。
「ねーねー、俺たちもうちょっとで会えるね。楽しみだなぁ」
ここで契約すると人の目が多く厄介だ。彼と二人きりになった時に自己紹介をしよう。ああ、待ち遠しい。
彼の家に着いたら、どんな風に登場しようか。いきなりで驚くだろうか。優しく名前を呼んでくれるだろうか。あの猫にしたように頭を撫でてくれるだろうか。想像するだけで照れくさい。
データによれば彼の家まで後30分。あと30分間で、俺は彼に会える。
「…俺も、ノクトって呼んで良いかなぁ」
ノクト、ノクトと本人を隣に名前を呼ぶ。この声はまだ届かない。
はやくノクトに会いたい。何から話そうか。取引のこと、きちんと説明できるかな。
家に着くまでの30分の間に、このうるさい胸は静かになってくれているのだろうか。