ああ、まただ。深夜のマサラはひどく静かなはずなのに、外からバサバサと騒がしい羽音が聞こえる。
窓を開けると、丁度地面に降り立ったのだろうリザードンの背に乗ったレッドと目が合った。
マサラには街灯なんて無いし寝静まった町に明かりは皆無だ。星の輝きだけを頼りにしたが、こんなことをするのは俺の知る限りたった一人だけだ。
「今何時だと思ってるんだ」
「わからない」
時計、持ってないんだ。そう言って気まずそうに笑う幼馴染に、思わずため息が出る。
外に出ると、玄関までやって来ていたレッドにがばりと抱き着かれた。
「ポケギアはどうしたんだよ」
「充電なくて」
ばーか。そう言って抱き返し、しばらくして部屋の中にレッドを招き入れる。今日は姉が不在で本当に良かった。
冷蔵庫から勝手に水を取り出し飲むレッドの後ろ頭を小突いて、振り返った所にきらりと光るものを投げ渡した。
「なにこれ」
見ればわかる、と言えば、レッドは受け取ったものをまじまじを見つめていた。
「鍵?」
小さなピカチュウのキーホルダーがついた鍵と俺を交互に見るレッドを横目に、自分用に淹れたコーヒーのカップを呷る。
「引っ越すんだよ」
カップをキッチンの流しに置くと、レッドは「え」とか「なんで」とか、想像通りの単語を一つずつ消化していく。本当に、分かりやすい男だ。
「マサラとトキワを行き来するの、結構大変なんだよ。帰りが遅いと姉ちゃんにも迷惑かけるし」
「そう、なんだ…」
「それに」
隣のレッドへと距離を詰め顔をぐいと近づけると、大きな目に俺が映る。
「こんな真夜中に帰ってくる誰かさんを、迎えなきゃいけないし?」
わざとらしく小首を傾げて言って見せると、途端にレッドの顔が赤くなる。俺がこいつを可愛いと思っているところの一つだ。
「さっきの合鍵、なんだけど」
「うん」
「手放したら、一生許さねえから」
そんなことしないよ、絶対に。耳元を掠めるその声が、息が、視線が、全部甘ったるい気がする。
「鍵、貰えるとは思わなかった」
「今日みたいに深夜に来られたら迷惑だからな…」
嬉しい。そう囁くレッドの声に顔が熱くなる。
再び腰に手を回されたかと思うと、そのままキッチンのテーブルに上半身を押し倒されそうになりその手をぱしんと弾いた。
「俺、痛いの嫌なんだ」
そう言ってやれば、レッドは困ったように笑って「仰せのままに」と額にキスを落とす。
レッドは俺に触れる時、いつも異常なほど優しく扱う。
もっと好きにしても良いと言っても「君にひどいことしたくないから」の一点張りだった。ひどいことって、なんだろう。
今もベッドの上で俺の胸を這う大きな手はもどかしいほど緩やかだ。
「男の胸なんか触って楽しいか?」
揉んだり撫でたりを繰り返されるうちに、ずっと不思議に思っていたことを訊いてみた。
「男の、というか…グリーンは、どこ触ってても楽しいよ」
「…あ、そう」
「僕しか知らないところが、いっぱいあるからかな」
レッドはいつもこうだ。恥ずかしいことを、なんでもないみたいにさらっと言ってのける。
特別扱いされることへの感覚がむず痒い。俺を見る目が熱を持つ瞬間、居た堪れなくなる。
腕を伸ばしてレッドを抱き寄せると、欲しかった体温がのしかかって来た。
「お前、ほんと俺のこと好きだよな」
レッドの首筋にキスをすると、俺が付けた痕が増えていく。
「うん、好きだよ」
君もだよね?
そう言ったレッドに同じことをされて、首を吸われる感覚に身体がびくりと震えた。
長いはずの夜が、一瞬で溶けていくようだった。
翌朝、目覚めた頃にはレッドは早々に身支度を整え出かける準備をしていた。
「なに、また山籠もり?」
だるい体を起こして聞けば「山だけじゃないよ」と短い言葉が返ってきた。
「昨日帰ってきたばかりだと思うんだけど」
「…ごめんね」
「そういうの、なんて言うか知ってるか?」
え、と振り返ったレッドに思わず口の端が持ち上がる。
「やり逃げ」
「いや、ちゃんと帰って来るから!」
人聞きの悪いこと言わないでよ、と慌てるレッドがおかしくて、俺は笑いながら再びベッドに倒れ込んだ。
「せっかく今日休みなのにな。まあ、引っ越しの準備進めるか」
「そうだ、いつ引っ越すの?」
「来週」
けっこうすぐじゃん。そう呆れたような声でそう返すレッドがリュックを抱えて傍までやって来る。
「だから部屋のもの少なくなってるんだ」
「そういうこと。住所、また送るから。たまには麓に降りてちゃんとポケギア充電しとけよ」
「グリーン、お母さんみたい」
「お前がそうさせてるんだよ」
そろそろ行かなくちゃと抱えたリュックを背負うレッドを呼び止めると、俺は机の上にあったものを渡した。
「なにこれ」
「日記帳」
受け取った新品のまっさらな日記帳を捲り、レッドが「なんで」と言いたげに不思議そうに首を傾げる。
「お前、普段ほとんど人と関わらないだろ。簡単で良いから毎日文字でも書いてないと、いつか言葉忘れそうだから」
忘れないよ、と言うレッドの表情が少し硬い。なにか思い当たる節があるのかもしれない。
「とにかく、時間なんてあっという間なんだ。図鑑以外の記録もつけて、自分がなにやってきたら残していくのも悪くないだろ?」
分かったならさっさと行ってこい、と玄関までレッドを見送る。
行ってきます。行ってらっしゃい。このやり取りを、もうどれだけ繰り返したか覚えていない。
何度も見たはずの背中が以前より広くなっていることに気が付いて、そのせいか少しだけ遠く思えて、いつか手を伸ばしても届かなくなってしまう気がした。
一週間後、俺はマサラからトキワへと引っ越した。家とジムが近くなった分移動は楽になり、自由な時間が増えた。
姉や祖父と会う時間は減ってしまったが、休日に時々マサラへと顔を出せばいつでも暖かく出迎えてくれる。そうトキワから離れていないとはいえ故郷を出てはじめて家族の存在の大きさを知った。引っ越して正解だったと実感する。
そして引っ越しから数週間経ったが、あれからレッドには会っていない。住所も送ったが簡単な返事が来たのみだ。あれはもはや筆不精とかそういう類のものではない。
いつものことだと今更気にもならない。レッドはモノやヒトに執着しないし自分にも興味が無い。あるのはポケモンへの興味のみで、ストイックを具現化したような人間だ。
レッドの世界にあるものは少ない。その数少ないもののなかに選ばれた自覚はあるが、だからといってレッドがそれらを手放さないとは限らない。あいつはいつだって身軽だから。
だから鍵を渡したのは、ある種の首輪のようなものだ。いつ帰ってこられても大丈夫なように、なんてただの建前だ。鍵を渡すことでお前は俺のものだと、俺はお前のものだと気付かせてやりたかったのかもしれない。
日記を渡したのは、レッドに自分の存在を自覚してもらいたかったからだ。自分が何をして何を考えているか、それぐらいは把握しておいて損は無いだろう。お前がなんでもないと思っていることは、案外そうじゃないんだぜ、と言っても伝わらない。いつも思い立つがまま行動する無鉄砲な幼馴染が自分を顧みるきっかけを作ってやりたかった。そうすることで、レッドの世界はもっと広くなるだろう。
レッドに「お母さんみたいだ」と言われたことがあったが、あれもあながち外れてはいないかもなとジムからの帰り道で自嘲する。もうすっかり暗くなった外を歩きながら考えることではなかっただろうか。
借りている部屋に帰宅して電気をつけると、玄関に見知った靴があることに気が付いた。
マジか。そう声に出したいのをぐっと堪えて部屋の奥に進むと買ったばかりのソファで寝息をかく男が一人、そこにいた。
「電気もつけないで何してんだ」
何時からいるんだお前は。と言おうとして、目の前の男の腹の上でピカチュウが丸まって寝ていることに気が付いてこれ以上声を上げるのをやめた。ポケモンに罪は無い。
ぺし、と頬を軽く叩いてやると閉じられていた瞼がゆっくりと開く。
「あれ、グリーン、おかえり」
へらりと笑う顔に無性に腹が立って鼻を摘まんでやると「いひゃい」と情けない声があがる。
その主人の声で起きてしまったピカチュウはその場をさっと離れると、部屋の隅でまた丸まってしまった。
「何がおかえり、だ」
摘まんだ鼻から手を離し、その無駄にでかい図体に覆いかぶさって抱きしめた。全身からレッドのにおいがする。
背中にまわされた腕からじわじわと熱を感じて、すん、と鼻をすすった。
「鍵、役に立ったよ」
「それは…、何よりで」
「あと」
レッドはソファからもぞもぞと腕を伸ばすと、傍に置いてあったリュックから例の日記帳を取り出した。
「ちゃんと書いたんだ、毎日」
褒めて、と言いたそうに突き付けてくる姿がポケモンみたいで可愛い、とは言わないでおこう。
レッドから日記を受け取ろうとしたが、何故かひょいと避けられてしまった。
「まだ完成してないんだ」
「完成ってなんだよ」
「なんというか、終わりじゃない、みたいな…?」
自分でもよく分からないのか、首を捻りながら答えるレッドに「なら完成したら見せてくれ」と答えるとこくりと頷いた。
雑談もそこそこに、服の中に侵入してきた手を払うとレッドは「そっか」と笑った。
「痛いの、嫌なんだっけ」
「そ。だからここじゃダメ」
ふふ、と笑い返してやると、レッドは上半身を起こした。
「そういえば、昼寝する前に寝室見ちゃったんだけど」
「勝手に入んな」
本当は、レッドなら勝手に入っても構わないんだけど。
「それはごめん、でも」
でも、と急に歯切れの悪くなったレッドを不思議に思っていると、手で口元を隠しながら視線を逸らされた。
「ベッド、グリーンのなのに、大きかったなって…」
確かに俺は、引っ越しするにあたりベッドを新調した。
トキワの実家のベッドは自分だけなら広さに文句は無いがレッドと二人で入ると一気に狭くなる。それもあって、少し大きめのものを買ったのは事実だ。
だけどそれを改めに口に出されると、レッドと二人で寝ることが前提のようで、自分がいかに浮かれていたかを実感し全身に熱が回った。
「いや、それわざわざ言うか?」
「僕、ここにいて良いんだって思って」
知ってる、これは調子に乗った顔だ。ソファから降りて、レッドの腕を引いた。
「ほら、行くぞ」
「え?」
「痛いの、嫌だって言ったじゃん」
そう答えれば、レッドはきゅ、と口を噤んだ。
それからレッドは、俺の部屋にいたりいなかったりを繰り返していた。
帰ってくるたびに日記をちゃんとつけていることを報告してくれるが、中身は未だに見せてくれない。
いつお前の中の完成が来るんだと訊いても「もうすぐだと思う」と言うだけで、それがいつなのかは分からなかった。
今日も日記の中身を見せてくれることは無く、ベッドの上で二人揃ってじゃれあっていた。
「なあ、お前が帰って来るタイミングって何?」
不定期にやって来るレッドに、そう訊いたことがある。
「おなかがへった時、かな?」
なんだそれ、ただ飯食いに来てんのか。そう返すと、レッドは慌てて「そうじゃなくて」と狼狽えた。
「空腹というか、全身が飢えてる、みたいな…つまり…」
うーん、と考えこんでしまったレッドを見て、これは時間がかかりそうだなと悟る。
「寂しいとか悲しいとか、そういう感情がぐちゃぐちゃになった時、真っ先にグリーンに会いたいって思うんだ」
そう話すレッドの表情は真剣そのもので、きっと全部本心なんだと分かる。
「全身が何かを欲しいって思う瞬間があって、バトルなんかじゃおさまらなくて。僕が僕じゃなくなる、みたいな」
それを聞いて、よく分からないことを言うなと思う反面、なるほどと思ってしまう自分がいた。
身体が欲する栄養と脳が欲する栄養の区別がつかない、ということなのか。
「そんな時、僕を繋ぎとめてくれるのはグリーンで、君がいなきゃ僕は今よりもっと駄目になる」
「要は俺に甘えに来てるだけじゃん」
「そうかも」
今日はやけにおしゃべりなレッドとは裏腹に、俺はなんて返すことが最良なのか分からず生返事しかできなかった。
「好きだから一緒にいる」なんて回答じゃ駄目なんだ。レッドにはそれだけでは足りない。「好き」と「一緒にいる」は簡単なはずなのにイコールにならない。
俺が簡単だと思ってるだけで本当は難しい問題なのかもしれない。それをずっと考えているレッドは、きっと俺には見えないものを見ていて、そして苦しいのだろう。
レッドに欲しいと思われなくなった時、俺はどうなってしまうのか。その時が来るのか来ないのかは知らないが、そんな未来ならいらない。
「グリーンは、僕が欲しいって思う時はないの?」
そんなのいつもだ、と言えば毎日ここにいてくれるのか。そうはならないことを知っている。俺の言葉じゃレッドを縛れない。
「なかったら、お前と寝てなんかない」
曖昧な言葉で濁して、また逃げた。だって仕方がない、いくつ鍵を渡したって俺はレッドにとって都合の良い空間を増やしてやることしかできない。
「今は?」
そう寂しそうな目で問われれば、答えは一つ。
「レッドは知らないと思うけど」
俺の言葉で頭に疑問符を浮かべる顔がなんだか間抜けで、無防備な頬を両手で包んでやる。
「お前を受け止められるの、俺ぐらいだからな」
「そう、かも」
「かも、じゃないんだよ」
顔を近づけると、俺が動くより先にレッドに口を塞がれた。
舌で触れるもの全てを確かめられるような感覚に頭がどろどろになって、何もかも考えることが面倒になっていく。
いつもやられてばかりなのが悔しくて手を服の中に忍ばせると、ふ、とレッドの声が漏れた。
「僕、グリーンに触られるの好きだな」
「それは、どうも」
「一番、生きてるって思えるんだ」
生きているということは死んでないということではなくて、そこに存在しているということだ。
「レッドは」
うん、と頷いて。
「レッドは、ここにいる。少なくとも今は」
人に触れられてる時、確かに自分がここにいるということを強く感じる。触れた個所から伝わる熱や感情がそれを理由づけてくれる。
お返しだ、とレッドも俺に触れてくる。レッドが触れてくると、いつも頭のなかにいろんな色が浮き上がってくる。
赤だとか青だとか黄色だとか、そういった色が全部頭の中で混ざり合って、濁ったかと思うと徐々にクリアになって、そして溶けて流れていく。
目の奥がちかちかと点滅するような感覚を恋だというのなら、俺はいつだってレッドに恋をしている。レッドもそうなら良いのに、とは口に出さない。
下へ伸びていくレッドの手が熱い。ゆるりと動く手が侵入してくる。ああもう、もどかしいな。
「レッドの言う、ひどいことってなに」
以前言われたことを思い出して訊けば、レッドはばつが悪そうに口を尖らせた。
「…君が嫌がること、かな」
「俺は嫌がらない。お前がすることなら」
全部受け入れるよ、だから好きにしていい。そう言って頬を撫でてやれば困ったように眉を八の字にするレッドが愛おしくて、何度も何度も好きになる。
レッドに日記帳を渡して半年が経った。
新居にも慣れ、帰れば連絡なしにレッドが部屋にいる状況にも慣れ、俺の生活はかなり落ち着いて来ていた。
なのに例の日記帳の中身は未だに知らない。ただ、今でも帰ってくるたびにレッドは「ちゃんと書いてる」と報告をしてくれる。
半年も経ったのでそろそろ書けるページが無くなってきたのではないかと訊ねた時は「そうかも」と曖昧な返事をされたのみだった。
そんなある日、突然小包が届いた。
宛先しか書かれていなかったが癖のある文字だった為すぐに送り主は分かった。
丁寧に包装を取り中を確認すると、俺がレッドに渡した日記帳が入っていた。
(なんで)
表紙を捲ろうとする指が自分のものではないようだった。脳の信号がうまく伝わっていないのかのように、言うことを聞かない。
やっと捲った最初のページには、花のスケッチと殴り書きのようなメモが書かれていた。
花の名前、食べられるか食べられないか、どんな香りか、そして。
『昔グリーンと見た花』
もう、何年も前のことだ。まだ俺たちがトレーナーにすらなっていない幼い頃、大人の目を盗みレッドと二人で近くの草むらに入って野生のポッポに襲われたことがあった。
あの時は助けに入ってきた祖父にこっぴどく叱られた。その時の俺たちはポケモンからは逃げるしかなかったし、捕まえることも戦うこともできなかった。
だけどその帰り際に、何も収穫が無かったと不貞腐れる俺にレッドが手を差し出した。その手には、日記帳に書かれていた花が握られていた。
走馬灯のように駆け巡る記憶が溢れ出しそうになる。なんで、今、こんなこと。
またページを捲り、さらに捲る。ここにはいないレッドに触れられた時のように頭の中から色んな色が混ざり合う。
『おいしかった。グリーンもおいしいって言ってたごはん』
『サント・アンヌ号。またグリーンと乗りたいな』
『今日は調子が良かった。グリーンの夢みたからかな』
どのページを見ても必ず自分の名前がある。鉛筆で書かれたのだろう掠れた文字を指でなぞると、その思い出が指先から伝わるようだった。
なんだよ、と自分以外誰もいない部屋に声が響く。あいつ、思ってた以上に馬鹿じゃん。俺のことしか考えてない。
空、食べ物、ポケモン、草花、空気、町、人、におい。レッドの中でその全てに俺が交じり合っている。
何を見て何を感じた時も、あいつの中には俺がいるんだ。鍵なんてなんの意味も無かった。
日記帳を置き、レッドに電話をかける。出ないことなんて分かっている。ただこうすれば、日記を読んだことは伝わるだろう。
だけどその数分後、玄関の扉が開く音がした。だれがそうさせたかなんて、考えるまでもない。