Tenderhearted - 1/2

遠くにぼんやりと見える人影は、きっと新たな挑戦者だ。
どこから噂を聞きつけたのか、あるジョウト出身のトレーナーが挑んできてからというもの、ここへやってくるトレーナーが後を絶たない。
今までは人が来ることなどほぼなかったこのシロガネ山は随分と変わった。いや、自分が変えたのか。
迷わぬ足取りでまっすぐこちらへ向かってくる影に何故だか緊張が走り、帽子を更に深くかぶり直し、つばを握る。
数メートル先までやってきた影は、吹雪のせいで姿がはっきりと掴めない。
だが相手の顔なんかどうだって良い。負かしてさっさと帰らせれば良い。ここに来ることはなんの意味も持たないことを分からせてやれば良い。
ボールへと手を添えようとした瞬間、向こうが先に口を開いた。
「やっと見つけた」
その懐かしい声は、こちらの戦意を削ぐには充分だった。


ざくざくざく。どんどん声の主が近づいて来ているのが分かる。
反射的に逃げようと背を向けてしまう。誰かから逃げようなんて思ったのは何年ぶりだろうか。
そもそも本当に、あの影は思い描いている人物なのか。否、間違えるはずがない、間違えたことなんて一度だって無い。
地の利はこちらにあるはずなのに、焦りから雪に足を取られる。
転ぶか転ばないかのすんでのところで腕を掴まれ、無理やり振り向かされる。

「レッド」

数年ぶりに見た幼馴染の顔は、思い出の中とものとまったく違った。
あの頃の彼はもっと、鋭い目を持っていた。そして、いつも太陽のように眩しかった。少なくとも僕には、彼の周りはいつもきらきらしている様に見えた。
グリーン。そう、彼の名前だ。物心ついた時からいつも一緒で、幼馴染で、ライバルで、いつも僕の前を歩いていて、そんな彼に追いつきたくて必死になって、そして僕が、彼をチャンピオンの座から引きずり下ろした。
「逃げんな」
記憶の中よりも少し低い声が脳を直撃してくらくらする。
君には一番会いたくなかったと手を振り払うと、今度は顔面を一発殴られた。血が出るほどでは無かったので本気ではないことが分かったが、痛いものは痛い。
そのまま胸ぐらをつかまれ、無理やり視線を合わせられる。君にこんな力任せな一面があったことを、僕は初めて知ったよ。
「お前は馬鹿だ、大馬鹿野郎だ。勝ち逃げなんか、俺が許すわけないだろ」
もう僕には逃げる気力が無かった。普段は静かなはずの雪山はひどく騒がしい。この嵐も、いつかきっと止むだろう。
「俺は最強になる男だ。最強になるには最強のお前を倒さなきゃならない」
最初から僕がいなければ、きっと彼は今もこの先もずっと頂点に居たはずだ。彼に追いつきたくて走り続けた旅だったのに、僕は一体何をしていた?
「俺が知ってるレッドは誰にも負けない、強い男だ。俺が知らない所で勝手に負けんじゃねえ!」
そのまま荒々しく手を離され、膝から崩れ落ちる。

つい数日前、例のジョウト出身のトレーナーに負けた。シロガネ山に籠ってから誰かにバトルで負けるのは初めてのことだった。
だけど、悔しさなんか無かった。そもそも感情なんてなかった。相手をしたトレーナーへの敬意なんて端から無かっただろう。
崩れた視線の先の雪へ影が落ち、グリーンも屈んでいることに気が付いた。
「いつまで逃げてんだよ」
少し上から聞こえる声は、先程よりは落ち着いていた。
「逃げてないよ」
久しぶりに出した声は、チャンピオンには相応しくないほど弱々しかった。
「逃げてるだろ」
「挑戦者は全部相手にしてる」
「違う」
突然白かった視界が急に暗くなり、ふんわりと懐かしい香りがした。
「俺から、逃げてるだろ」
背中に手をぎゅうと回される。抱きしめられていることに気が付いた。
「そんなことしても何も変わんねえって、お前だって分かってるはずだ」
彼の声が震えている。そんな泣きそうな声を出さないでほしい。
僕は最強なんかじゃない。君が思うような強い男でもなければ、涙を流させるほどの価値がある人間ではない。今まではただ後ろを振り向く理由が無かっただけだ。とにかく前だけ向いて、はやく君に追いつきたかっただけだ。
だけど君はいつだって気丈で、昔から僕の目の前でなんだってやって見せた。図鑑だって僕より圧倒的に埋まっていた。そこらのトレーナーより知識があった。手持ちを誰よりも愛していることだって知っている。
「グリーン」
気が付けば名前を呼び、彼の両頬に手を添えていた。冷たい、と困ったように笑う目の端がきらりと光る。
いつの間にか雪は止んでいて、辺りの景色もグリーンの顔も、はっきりと視界に入ってくる。
「俺の名前、忘れてなかったんだな」
「忘れないよ、忘れるもんか…」
そのまま彼の涙に引き寄せられるようにキスをした。
バトルも友達も旅立ちもキスも挫折も、僕のはじめての相手はいつだってグリーンだなとぼんやり考える。
互いの唇が離れた後、これが恋か友愛か知りたくて彼の目を見つめた。
「お前、俺がはじめてだろ」
意地悪そうに口の端を上げるグリーンは、どことなく満足そうだった。
「なんで分かるの」
「下手くそだから」
少し、間を空けて。
「じゃあ」
君が教えてよ。
そう言うと驚いたようにまばたきを繰り返すグリーンは、少し幼く見えた。
「前々から思ってたんだけど」
「うん」
「お前、俺のこと相当好きだよな」
頷くと、顔が熱を帯びた、気がする。
そしてやっと気が付いた。親友やライバルなんて言葉じゃ足りないぐらい、僕はグリーンが好きなんだ。
だからと言って隠す必要も無い。君の前では嘘がつけない。
「知りたきゃ帰って来いよ」
「まだ、帰れない」
なんでだよと、と表情が険しくなるグリーンを抱きしめた。
心臓の音がはやい、吐息がくすぐったい、懐かしいにおいが僕の意志を脆くさせてしまいそうだった。
「君の気持ちを聞いてない」
僕はこんなに君を想っているのに。その声はまるで駄々をこねる子どもの様だった。
「やっぱりお前、馬鹿だ」
「…知ってるよ」
「あと鈍い」
今度は彼からキスをされた。それは先程の触れるだけの稚拙なものとはまったく違う、未知の行為のようだった。
確かに教えてくれと言ったのは自分だが、すぐ実践に持ち込むところは昔から変わらない。
呼吸が出来ているのかいないのか分からない。絡まる声も息も全部あつい。触れる肌は溶けてしまうのではないか。
こうしている今だって君は先を行く。僕の知らないことをたくさん知っている。でも、ずっとそれだと面白くないじゃないか。
彼の腰に手を回し、ぐい、と引き寄せる。驚いたのか一瞬力の抜けた男の体は想像よりも自由が利いた。
どんどん深く繋がっていく気がする。このまま、ずっと二人きりなら良いのに。

ようやく顔が離れた頃には、僕はもうグリーンの顔を見ていられなかった。
どんな表情をしているんだろう。怒っているのか、呆れているのか。もうどっちだって良い気がした。
「レッド」
名前を呼ばれ、恐る恐る彼の方へ振り返ると、既に身なりを整え身支度を整えていた。
ああ、ついに行ってしまうのか。僕を置いて、また。

「一緒に帰ろう」
「……え」
「お前が言ったんだろうが。俺の気持ちを聞いたら帰るって」
さっさとしろと言わんばかりに急かしてくるグリーンと、いまいち状況に追いついていない僕とでちぐはぐしてしまっている。
「レッド」
再び名前を呼ばれる。先程より優しい声が、じんわりと響いた。
「お前が好きだよ。ずっと。いつだって俺の先を行くお前が」
「…誰のことを言ってるの」
だって、いつも先を行くのは君じゃないか。
「分からないか?困ってるやつを放っておけないお人よしで、誰より強い、みんなに認められた男だ」
「それは僕じゃない、君のことだ」
「そうだとしても」
近づいた彼に腕を引かれ立ち上がる。
「俺が好きになったのは俺の知ってるレッドという男だ。それで充分だろ」
お前がいたから旅を続けられた。図鑑を埋める努力をした。どんな困難にも立ち向かえた。チャンピオンという夢に近づけた。お前がいなければ、きっと何もできなかった。
そう続けるグリーンの声は真っすぐだった。
「お前は俺にいろんなものをくれた」
だって、だって、そんなのおかしいじゃないか。そう思っていたのは、僕の方だったはずなのに。僕は君から夢を奪ってしまったのに。
「だから、帰って来い」
そう言って両手を広げるグリーンの笑顔が、声が、全てが眩しい。昔から、何も変わってなんかいなかった。
僕が彼を抱きしめると、彼は応えてくれる。涙を流すのは、今日で最後だと思えた。