まるで罠にかかった野うさぎの様だ。ベッドの上から動けない体と目の前の陰にため息が出る。
エアコンの効いた室内は真夏といえど快適な温度を保っているはずで、それなのに首筋を何度も汗が伝う。
外からうっすらと聞こえてくるセミの鳴き声も、時折通知音を響かせるスマートフォンも、つけっぱなしのテレビから聞こえるタレントの声も、全てが嘘のようだ。
「ディミトリ」
名前を呼んでも、呼ばれた本人は時折身じろぐ程度でここから退く気配を見せない。
二人そろってセミダブルのベッドに倒れ込み、逃げる前にがっしりと腕を回され振り払おうにも敵わない。馬鹿力め。
相手の顔は肩口に押し付けられたままなので表情が分からず、不安になる。
「なあ、そろそろ顔ぐらい上げてくれないか?」
辛うじて動かせる腕で頭をぽんぽんと撫でてやると、やっと顔を上げた。と思ったら首筋をべろりと舐められる。何やってるんだ、本当に。
(そんなことをしても楽しくないだろ)
少し動いた顔から、真夏の空よりかは遥かに遠い澄んだ青色が見える。
クロード。確かに、そう名前を呼ばれているような気がした。
大学生になったのを機にこの部屋で二人で過ごす様になって一年ほど経つ。最初は互いに気を遣うばかりであったが、次第にその壁は薄くなっていった。
俺とディミトリは高校で出会い、距離を縮め、そしていつしか友情のその先へと踏み込んでいた。
世間で言えば俺たちの関係は恋人なのかもしれない。でも、はっきりと想いを伝えあったことは無かった。
視線がぶつかれば唇を、人肌恋しいときは手を重ねる。その程度だった。
子どもの恋愛ごっこではあるまいしと思うが、それ以上になることも関係を断つこともしなかったし、しようとも思わなかった。
「なんとなく」がずっと続き、いつの間にか一緒にいることが当たり前になっていた。そんな関係に、俺は甘えていたのかもしれない。
人の心なんて読めないが、俺はこの同居人の考えが大抵分かってしまう。それだけに苦しい。
直接聞けば良いのに、それが出来ないのは怖いからだ。何が、なんて決まってる。
鼻先が触れ合う程度に顔を寄せると、呼吸を間近に感じた。生きているんだから何か喋ってくれと睨んでやるが、この男には届かない。
触れた鼻先が離れ角度が変わったと思うと、視界が暗くなり唇に柔らかい感触があった。
何も言わないのは卑怯だ。前置きがあるのも嫌だ。結局のところ、俺はただ混乱するだけだった。
抱きしめられる力が更に強くなる。骨が折れそうとはいかないが、かなり苦しい。
広い背中を叩いて苦しいことを告げると、少し腕の力が弱まった。ほっとした隙に口内への侵入を許してしまって、もう引き返せないことを悟る。
こういう時は目を瞑るのがマナーというが、俺は奴がどんな目をしているのか気になってそれどころではなかった。
(獣だ)
目の前の澄んでいたはずの青色はすっかり濁っている気がした。
高校時代、同級生の一人が彼を猪と呼んでいたことを思い出す。なるほど、これは確かにと一人納得した。
はあ、と息が漏れる。どちらのとは区別がつかない吐息が混ざり合って脳が溶けそうだ。全部全部、夏のせいにしたい。
顔が離れてやっと解放されたかと思っていると、先程までの獣は今度はすっかり落ち込んだ子犬のような表情になってしまっていた。
どうしたと聞く前に、形の良い少し濡れた唇が動く。
「嫌じゃなかったか」
「別に」
へらりと笑ってやると、下がっていた眉が少しだけ戻った。そういう所が可愛いと思ってることを、俺は伝えたことが無い。
「このまま何もしない方がおかしかったと思うよ」
そう言えば、真夏なのに真っ白な頬に少し赤が差した。
二人で一緒に住む部屋を決めた時、ベッドを決めたのはディミトリだ。
男二人なのにセミダブルにしたのには理由があると思っていたが、特に触れてこなかったのはお互い何かを期待したからだろう。
色事については淡泊そうな癖に変なところで欲を出すところは、からかい甲斐があって好きだ。
もう一歩と踏み込めば、もっとその先へと願ってしまうのが人間だ。所詮俺たちも、一般的で健全な大学生だった。
だからいつの間にか服の中をまさぐる大きな手も止めはしなかった。どさくさに紛れて何やってんだという気持ちだけ込めて、さらさらの金髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
撫でられたり揉まれたりを繰り返すうちに、くすぐったいような感覚に次第に慣れてくる。
「男の体なんて触って楽しいか?」
「まあ、そうだな…」
そうかと返すと、その手がだんだんと下へ下へと向かっていることに気が付いた。
いい加減止めたほうが良いのかとも思ったが、考えるのが面倒になってしまった。なるようになれ。
初めての他人の体温は、ひどく心地がよかった。
溶けあう汗が絡まる熱を長引かせているようで、余韻の波が押し寄せる。
こんなに誰かに身を任せたのも誰かを受け入れるのも初めてだった。体に触れるあいつの手がこんなにも優しいことを知らなかった。人は、こんなにも馬鹿になれるものか。
流されてしまったことに文句の一つでも言いたい気分になったが喉が枯れて声が出せなかったので、残っている僅かな力で近くにあった枕を金髪の獣に投げつけた。
避ける素振りも無く大人しく俺の攻撃を食らっていたが、その顔が嬉しそうだったのが余計に腹が立つ。
気が付けばテレビから流れる番組が変わっている。どれだけの時間が経ったのか分からない。本当に、何をしているのだろう。
「クロードは、変わったな」
体が離れて最初の言葉は愛の囁きでもなんでもなかった。
それにショックを受けるわけでもないが、こういう所が俺たちらしいとつくづく感じる。
「俺から言わせれば、変わったのはお前だよ」
かすれた声でそう返せば、隣でにやにやしていた大型犬はきょとんとした表情になる。
「変わった…俺が?」
「ああ、そうだよ…」
ディミトリが誰かに欲を出す姿なんて今まで見たことが無かった。その初めての相手が自分だということが、どうにもむず痒い。
「クロードも…昔だったら、どんな手を使ってでも逃げてただろう」
「そうだろうな…でも、お前から逃げられないの、分かってるから」
寝返りを打ち背中を向けると後ろから腕を回され、すっかり冷めていたはずの肌に熱が戻る。
俺たちの間に愛の言葉は無い。きらきらと輝く青春も、流れ星のような奇跡も、ドラマチックな夜も無い。
なのに、こうやって二人で馬鹿なことをしているのは確かに運命だ。
そう思えることは、悪いことじゃないだろう?