雨の大修道院はひどく静かだ。雨音につられるように生徒たちの足音がよく響く。
講義を終えた教室には、自分以外誰もいない。いつもの騒がしさも無ければ面白みもない。しめった紙のにおいが、やたらと鼻につく。
何か理由があってここに残っているわけではない。ただ、こういう日はまっすぐ部屋に戻ろうとすると大抵誰かに捕まってしまうので、しばらくはここに籠っていようと決めたのだ。
頬杖を突き、今日の講義の内容を振り返りながらパラパラと手元の本のページをめくる。知識を得ることは楽しいが、それに興味があるかは別だった。今日は、どうだったか。
しばらくして雨が少し激しくなってきた頃、廊下にひとつの足音が響いた。知っている音だった。
足音が止まり、俺は自分の口元が緩んだのが分かった。
「そんなところで突っ立ってるだけで良いのか?」
振り返らず声をかけた。返事は無いが、代わりに足音が近づいてきた。
「なんで、分かったんだ」
「クロード」と、落ち着きと戸惑いが半々にぐちゃぐちゃに混ぜられたような声で名前を呼ばれる。いつも思うが、面白い男だ。
頬杖をついていたテーブルに影が落ちる。顔を上げると、今日初めて見るディミトリの顔がそこにあった。
教室の中は明かりが消えかかっていて暗いのに、目の前の男の瞳は光で満ちているように見えた。まっすぐ見つめられると、少し眩しいような気がしてしまう。
「お前の足音、分かりやすいんだよな」
言いながら本を閉じ立ち上がる。視線の少し上のブルーは、なんだか気まずそうだった。
「何か用があったんだろ?」
「ああ、これを渡しに」
一冊の本を差し出される。受け取ったそれは、この間彼に貸していたものだった。
たまたま薬学の本を持ったまま歩いているときに声を掛けられ、意外にも彼が薬学に興味があると話したので貸したものだった。
「まさか王子様が薬学に興味があったとはな」
少し意地悪な言い方だっただろうか。でも、これぐらいが丁度良い。
ディミトリはこほんと軽く咳払いをすると、穏やかにほほ笑む。
「今のうちに、色んなことを…、知っておきたかった」
そう言った彼の表情から、どうしてか目が離せなかった。
まばゆい金色の長い前髪から水が伝っている。廊下で雨にあたったのだろう。
だが、渡しに来てくれた本は濡れていなかった。雨のせいで肌寒いのに、なんだが顔が熱い気がした。
俺は受け取った本を机に置くと、一歩前に出てディミトリとの距離を詰めた。
驚いた表情の彼を余所に、水の滴る前髪をかきあげた。
視線がぶつかっても互いに動かなかった。動けなかった、が正しいのかもしれない。
背伸びをすると鼻先がぶつかりそうな距離だ。こんなに間近で彼の顔を見たのは初めてかもしれない。
そんなことを考えているとディミトリが口元を抑えたので、そこでやっと俺は我に返った。
「台無しだ、と思って」
「…何、が」
視線を逸らされる。
「せっかくの、男前が」
言うと、ディミトリは顔も逸らしてしまった。それもそうか。
だが、このぐらいの軽口が丁度良い。そうだろう?
気が付けば雨は止み、少しずつ教室に光が差していた。
目の前の男の顔が赤いことも、俺がそれにつられてしまいそうになっていることも、気が付かないふりをした。