sanctuary

確か、あれは10年前の夏だったと記憶している。
あの時住んでいた家は庭が広く、まだ幼い頃の自分は窓から眺める庭の景色が大好きだった。
グランドピアノの置かれた広い一室にある窓を開けると心地よい風と太陽の光が降り注いでくるので、その部屋が俺のお気に入りだった。
その日も窓を開け、ピアノの前に置いてある椅子に座って一日を過ごしていた。
ピアノは弾けなかったが、その日は本当に気まぐれで弾いてみたいと思い、壊さないようにゆっくり鍵盤蓋を開いた。
すらりと並ぶつやつやとした白と黒の鍵盤がまるで宝石のようで、目を奪われた。いつもは母が弾くときと調律の時ぐらいしか見ない鍵盤が、こんなにも近くにある。
恐る恐る人差し指でやさしく押すとポーンと音が響き、感動したのを覚えている。
楽譜も読めないので適当に両手を使って弾いてみたが、勿論到底音楽とは呼べるようなものではなく、少し泣きそうになる。
もう止めてしまおうかと思ったとき、窓の方から声が聞こえた。
「なんだ、もう止めちまうのか?」
びくりと肩が震える。ここには両親と自分以外、人なんていないはずなのに。
恐る恐る振り返ると、自分と同い年ぐらいの見知らぬ少年が窓辺で頬杖を突き、こちらを見ていた。
人懐っこそうな表情とエメラルドのような澄んだ瞳が印象的だった。
「だ、誰…?」
聞いても少年は答えなかった。代わりににかっと笑っただけで、すぐ立ち去ってしまった。
「ま…待って!」
玄関までまわる時間が勿体なくて、窓から直接庭へ飛び出す。遠くの木が生い茂っている方へ少年の後姿を見つけて、靴も履かないまま追いかけた。
足の痛みも乱れる呼吸も気にならないほど夢中で少年の背中を追ったが、結局彼を見つけることはできなかった。


目が覚めて、今見ていたものが夢だったことに気が付いた。
そして、昔の出来事の記憶だということも。
(なんで今更、あんな昔のことを…)
今まで忘れていた記憶がじわじわと蘇ってくる。
あの時住んでいた家からは引っ越してしまっているので、今は別の場所に住んでいた。
あの家はまだ残ってはいるらしいが、今では誰も住んでいないと聞いている。
あの少年のことは結局誰にも話さなかった。話したところで信じてもらえない気がしたし、どうしてか、自分だけの秘密にしておきたかったからだ。
ベッドから降りて、顔を洗い顔を見て思わずため息が出る。目の下のひどい隈を、どうやって誤魔化そう。
身支度を整え、朝食も取らず鞄を手に取る。テーブルに置いてあった楽譜は見て見ぬふりをしたかったが、そうもいかないので丁寧に鞄に仕舞った。
高校3年生の俺は、音楽科のある大学を受験することになっている。受験日まではもう1か月を切っているが、ピアノの課題曲の出来が芳しくない。
それでも俺は、今日もピアノに向かうだけだった。

一日の授業を追え、そのまま課題曲を仕上げる為にまっすぐと音楽室へと向かった。
家にもピアノはあったが、学校の音楽室の方が落ち着いて練習出来るため、受験を理由に夕方の数時間だけ特別に使わせてもらっている。
自分以外誰もいない空間で課題曲に向き合うが、やはり思うように指が動かない。
今までこんなこと無かったのに、受験直前になってスランプなんて笑えない。このままでは駄目だと分かっているのに、どうすることも出来ない。
今日はさっさと切り上げて帰ってしまおうかと思ったとき、ガラッと音楽室の扉が開く音がした。
まだ先生が戸締りに来るには早すぎる。扉の方へ振り返ると、スケッチブックを抱えた男子生徒が立っていた。
誰かと聞く前に、こちらに近づいてきてこう言った。
「なんだ、もう止めちまうのか?」


その生徒は、クロードと名乗った。
制服ではなく動きやすそうな私服だった為一瞬教員かとも思ったが、芸術学科の生徒かと聞くと「そうだ」と答えた。確かに芸術学科の生徒は制服を汚れないようにするため、放課後や課題中は私服に着替えている生徒が多い。彼もその理由で制服を着ていないのだろう。
「なあ、アンタ絵のモデルになってくれないか?」
「は?」
突然の申し出に、思わず間の抜けた声が出る。
「たまたまディミトリのピアノ聴いちゃってさー。なんかこう、ビビッときたっていうか」
「待て、なんで名前を知ってるんだ」
「あー…だって、有名だよ」
放課後、夕日の差し込む音楽室で一人ピアノを弾く金髪の王子様。そう呼ばれていると、彼は教えてくれた。
「申し訳ないが、モデルには付き合ってやれない」
「ふーん、なんで?」
「何故って、悪いが絵のモデルの相手をできる状態じゃないんだ」
ただでさえ課題曲が上手くいっていないのに、他人の相手をしながら練習なんてできるわけがない。
「相手してほしいわけじゃないって。俺も話しかけないからさ。ただ、ここでピアノ弾いてるお前を描かせてさせてほしいだけ」
な?と小首を傾げながら聞かれ、どうしてか、本当にどうしてか、俺は首を縦に振ってしまった。

それからは、奇妙な毎日が始まった。
放課後に音楽室へ行くと、だいたい決まって数分後にクロードがやってくる。
何も喋らないまま、お互いピアノとスケッチブックに向き合った。譜面をなぞる音と鉛筆が紙を走る音だけが、数時間の間流れるのだ。
そして戸締りの時間の10分前ぐらいに、クロードはスケッチブックを抱え軽く挨拶だけして部屋から出ていく。
そんなに急いで出ていかなくてもギリギリまで描いていれば良いと言ったことがあるが、他の人にに自分がいることを知られたくないらしい。
その為、いつも俺は一人で音楽室を後にする。彼と一緒に過ごす時間は長かったが、彼と会話をした回数は多くはなかった。
だが、クロードがやって来るようになってから、不思議と自分の調子が良くなってきているのが分かる。
鍵盤を向かい合っても楽しくなかったのに、今ではわくわくとした気持ちで指が弾んでいるし、今までと聞こえていた音すら変わった気がする。目の下のひどい隈もすっかり消えていた。
やっていることは変わっていないのに、そこにクロードがいるだけで、はじめてピアノを弾いたあの時のように心が躍っていた。
一度、休憩中にクロードに描いているものを見せてほしいと頼んだことがあるが、断られた。
「ディミトリの受験が終わったら見せてやるから」
「受験が終わったらって、…そう言えばその課題、いつまでなんだ?」
「うーん、秘密ってことで」
そう言って、彼は笑うだけだった。
クロードは大学受験をしないのかと聞いたこともあったが、うまい具合にはぐらかされた。
彼は自分のことは必要以上に語らなかった。俺が知っているのは、彼がクロードという名前で、俺の絵を描いているというだけだった。
もっと色々聞きたいことはあったが、深く詮索するとこの大切な時間が消えてしまいそうで、怖くて出来なかった。
ついに、受験日前日の最後の練習の日。クロードは帰り際にスケッチブックを音楽室に置いて出ていこうとした。
慌てて忘れものだと渡そうとしたが、無言で首を横に振り「持っていてほしい」と押し付けられた。
「課題曲、ちゃーんと弾けたら見ていいからな」
そう言って彼は出て行った。
残された俺は、先生が戸締りに来るまでスケッチブックをまるで宝物のように大事に抱えたまま突っ立ってしまっていた。


そして受験が終わり、合否はまだ分からないがクロードの言う「ちゃんと課題曲を弾く」は達成したように感じる。
俺は律儀に約束を守って、受験が終わるまでスケッチブックは開いていなかった。
家に帰り、大事にしまっていたスケッチブックを取り出し、少し緊張しながらゆっくり開いた。
最初のページを見て、俺は思わず息をのむ。
(…なんで)
そこに描かれていたのは、ピアノを弾いている自分だった。
だが、それは今の自分ではなく、昔の家でピアノを弾いていた幼い頃の姿だった。
はじめて触った鍵盤に興奮した様子の嬉しそうな自分の横顔。俺は、こんな顔をしてピアノの弾いていたのか。
恐る恐る次のページを開くと、昔住んでいた家の玄関、広いきれいな庭、花壇。
次々とページを捲っていくと、美しかった庭はどんどん荒れ果てた絵へとなっていった。
ピアノの置いてあった部屋からも俺とピアノが消えて、どんどん廃墟のように荒れ果てていく。
最後のページには、庭の奥にあった気が生い茂っていた場所が描かれていた。
(俺が、昔あの少年を見失った場所だ)
次の日、真相を確かめる為にスケッチブックを抱えた俺は慌てて芸術科のある校舎へと向かった。
知らない顔ばかりの教室に入り、近くにいた生徒に息を切らしたままクロードはどこにいるかと聞いた俺は自分の耳を疑った。
「クロードなんて名前の生徒、うちにいないけど」


そこからはもう、どうやってここまで来たのか分からないが、気が付いたら昔住んでいた家に辿り着いていた。
スケッチブックに描かれていた通り建物は廃墟と化しており、庭も荒れ放題だった。
美しかった記憶の中とあまりに違い過ぎてショックを受けたが、誰も手入れをしていなかったので仕方がない。
庭の中を進み、スケッチブックの最後に描かれていた場所に辿り着いて、ずっと探していた背中を見つけた。
「…クロード!」
思ったより大きな声が出て、思わず口を手で塞いだ。
振り返ったクロードは、いつもと同じ笑顔だった。
光が反射してきらりと光るエメラルド色の瞳を、美しいと思った
「お前は、あの時の少年だったんだな…」
「ああ、そうだよ」
なんでもないように言うクロードに近づき、逃げられないよう腕をつかもうとしたが、手が腕をすり抜けるだけで掴むことが出来なかった。
「お前は…幽霊、なのか?」
自分でも馬鹿なことを言っていると思ったが、クロードはきょとんとした顔で「お前がそう思うならそうなんだろうな」とくすりと笑った。
「どうして、今になって俺の前に現れたんだ」
「さっきから質問だっかりだな」
うーん、と顎に手を添え、クロードはじとりとこちらを見つめる。
「お前が…何も言わないから」
全てを見透かされそうな視線にすこしたじろぎそうになるが、ぐっと堪える。
「ディミトリがさ、俺のこと思い出してくれたから」
「夢を見た、だけだが…」
「ああ。それでも嬉しかった」
だから助けたかった。そう言って、クロードは俺の抱えていたスケッチブックを手に取り、1ページずつビリビリと破いていった。
千切れた紙がパラパラを風に舞い、どこかへ飛んでいく。
「俺、昔からずっとここでお前のこと見てたよ」
ま、お前は気が付かなかったんだけど。見えなかったし。とクロードは困ったように笑う。
「でも、お前がピアノを初めて弾いたあの日、俺が声を掛けたら話かけてくるから驚いてさ。思わず逃げちゃったけど、本当に嬉しかった」
そして最後のページまで破き終え、ばさっと手に持っていたスケッチブックを投げ捨てたクロードは背伸びをして俺にキスをした。
「あ、キスは出来るんだ」
不思議だよなー、と笑う彼とは反対に、俺は一瞬のことに顔が熱くなるのを止められなかった。
言いたいこと、聞きたいことはまだ山ほどあるのに、全然言葉が出てこない。
「もう俺の事、思い出さないでくれよな」
「どうして…」
「じゃないとお前のこと、連れていってしまいそうだし」
それでもいい、一緒に連れていってくれと言う前に、クロードは消えてしまった。
気が付けば、風に舞ったスケッチブックも姿を消していた。
残された俺は、荒れ果てた庭で、初めて声をあげて泣いた。