One Last Time

「最低」
怒りとも悲しみともとれる感情を含んだ声と共に、頬に痛みが走る。
何故こんな夕方の河川敷で女の子に打たれなければならないのか。
もうすぐ夏になろうというこの季節に河川敷に呼び出されたかと思うと、この仕打ち。仕方ない、原因は俺なんだから。
額をつたう汗は、暑さからか、焦りからか。
痛いなぁ、と思い自分の頬をさすっていると、相手は踵を返していくところだった。
本来ならその手を取って「待ってくれ」「俺が悪かった」「話を聞いてくれ」と適当な言葉を並べて彼女を引き留めるべきなのだろう。
だがそんなこと俺にはできなかった。彼女が俺にどうして欲しいのかも分からないし、彼女が求めていることなんて、何一つ分かったことがなかったから。
遠ざかる彼女の背中は夕日で真っ赤に染まっていた。その表情は泣いているのだろうか、もしくは清々したと笑っているのだろうか。
彼女の背中が完全に見えなくなったあたりで、全身の力が抜けたようにその場に座り込んだ。彼女には申し訳ないが、肩の荷が降りたようでほっとしている。
大学生になったばかりで浮かれていた時期に、その場の気まぐれで一緒にいることが多くなった彼女とは、まるで流されるように気が付いたら恋人のような関係になっていた。
彼女は俺に入れ込んでいたようだったが、俺にはそこまで彼女に夢中になることが出来なかった。
「シルヴァン君は私のこと好き?」と聞かれる度に、消えてしまいたかった。
こういった関係は早めに解決しておくに限る。だから俺から「ごめんやっぱり好きになれない」と正直な気持ちを伝えると、明日夕方にこの河川敷で会おうと呼び出された。
何故夕方にこの河川敷なのか分からなかったが、今なら理由が分かる気がする。
この時間は帰宅途中の学生が大勢この道を通るのだ。今も近所の学校に通う学生たちに好奇の眼差しを向けられていた。
多くの視線がこちらを見ながら通り過ぎていく。
やっちまったな、と空を仰ぐと一際爽やかな声が聞こえた。
「大丈夫ですか」
声の方へ振り替えると、金髪の少年が佇み、こちらを心配そうな表情で見ていた。
少年は俺の母校の制服を着ていた。獅子をモチーフにした校章が懐かしい。
つい数ヶ月前までは自分もこの制服を着ていたのだと思うと、なんだか不思議な感じだ。
「あー、いや、平気だから。大丈夫」
へら、と笑って見せながら立ち上がると、金髪の少年の後ろから同じ制服を着た不機嫌そうな少年が現れた。
「だから言っただろう、俺たちが心配するようなことじゃない」
眉間にしわを寄せ、いかにも面倒だとでも言いたそうな表情を貼り付けたその少年と目が合う。
少年より俺の方が背が高い分、彼が俺を見上げている。俺の顔を見るなり、少年は少し不思議そうに目を見開いた。
もしかして知ってる奴だっけ。それとも母校の生徒だしどこかで会ってた?でも何も思い出せないから、きっと初対面だ。
そう思うのに、俺も彼から視線が外せなくなってしまった。
少年の瞳が不安そうに揺れるが、それでもすぐに何事もなかったかのようにそっぽを向いてしまった。
「帰ろう、ディミトリ」
少年が帰路に戻ろうとする。
「え? あ、ああ…」
ディミトリと呼ばれた金髪の少年は先を行ってしまった不機嫌そうな少年を追いかけようとしたが、こちらを振り返ってぺこりと会釈した。
「余計なお世話だったかもしれません。でも、初めて会った気がしないと…」
一瞬、間を置いて。
「そう、いつが言うので」
それだけ言い残して、金髪の少年も行ってしまった。

家に帰った頃には、頬の痛みはなくなっていた。
鏡で自分の顔を確認するとまだ少し赤くなっていたが、なんとか明日には引きそうだ。良かった。
荷物を床に雑に投げると、少し音が響いた。一人暮らしだから家族には咎められないが、下の階の住人からは苦情が来るかもしれない。
そのままフカフカのベッドに倒れ込み、河川敷で出会った少年のことを考えた。
一人はディミトリという名前だそうだが、もう一人の名前はわからなかった。
きっともう二度と会うこともないだろうに、あの始終難しい顔をしていた少年のことが頭から離れなかった。
向こうも何かを気にしていたし、やっぱりどこかで会っているのだろうか。それに、何故わざわざ声をかけて来たのだろうか。初めて会った気がしないとは、どういう事なのだろうか。
気になることは色々とあったが考えて何も分からない。もう考えることはやめよう。明日の自分のことだけでも精一杯なのに。
明日学校では、きっと俺は最低な男としてまわりから話題のタネにされるだろう。そう考えるだけで、もうどうでも良くなってしまった。
昔からこうだった。女だとか男だとかどうだって良いのに、近寄ってくる女の子を無下に扱う気もないのに、ただ家柄や外面に釣られてきた女の子たちからの評価は最悪だった。みんな最初はにこにこ話しかけて来ていたのに、ある日突然人格否定をはじめてくるのだ。
もう慣れたものだし周囲の評価もどうなっても構わなかったが、面倒ごとだけはお断りだ。

気がついたら夢の中だった。
何故夢とわかるかと言うと、今の状態があまりにも現実とかけ離れていたからだ。
どうやらここは森の中らしい。いかにも戦禍の真っ只中と言った感じで、あたりは炎に囲まれ煙が上がり、地面に倒れている兵士らしき死体の山がある。夢とは思えないほどしっかりと血のにおいを感じる。
俺はと言うと、立派な鎧に身を包み、手には使い込んだ槍を握っている。どうやら自分も兵士のようだ。
誰かがここは夢の中だと言ったわけでは無いが、この状況を見るに、これは夢だ。でないと困る。
逃げた方が良いのかと思ったが、体が動かない。
どうしたものかと考え込んでいると、目の前に影が現れた。
人影だ、と思った時には、ギラリと光る剣の切っ先を喉に当てられていた。
(なんだ、これは…)
喉に当たるか当たらないかのギリギリを剣先が掠めている。俺は、殺されるのだろうか。
たとえ夢の中だったとしても死にたくはない。誰がこんなことを。
今にも俺の命を奪おうとしている剣の持ち主を見て、俺はギョッとした。
そこには、今日河川敷で会ったあの不機嫌そうな少年が立っていた。
正確には、あの少年と顔立ちは同じだが、幾分か歳を重ねたような青年の姿だった。
(なんで)
声を出したいのに、喉からはひゅうひゅうと息が漏れるだけだった。
「本当に、運が悪いな。シルヴァン」
少年はどこか悲しそうな表情で、俺の喉に剣先を突き当てたままポツリと呟いた。
(なんで俺の名前を)
「槍を構えろ」
そう言いながら少年は剣を引き、それと同時に俺の手が勝手に槍を構えた。
「それで、良い」
ふ、と不適に笑う少年の表情は、どこか満足そうだった。
お互い武器を構え、間合いを取る。
(やめろ。戦いたくなんか無い!)
戦う?誰と?彼と?命の奪い合いを?ここで?どうして?
「死ぬ時は一緒だと約束したな」
(そうだ。俺たちはいつだって、今までだってそうだったように死ぬ時だって一緒だ)
「だが、…悪いが先に死んでもらう」
(違う、こんなことしたく無い。お互い望んでいないはずだ)
頭の中を自分の声が轟く。まるで耳元で叫ばれているようにはっきりと聞こえるのに、肝心の俺の声は全く出せないままだ。
全身が沸騰しそうなくらい熱い。目からは涙がこぼれ、手には汗と血が滲み、ぬるりとしている。
少し霞む視界でなんとか彼の姿を捉える。あいつだって、きっと俺と同じで泣きたいはずなんだ。
「約束は、守れそうにない」
そう言った彼の目が、動揺で揺れていたからかもしれない。
「…フェリクス!」
やっとの思いで声を絞り出し、俺はその場に槍を投げ捨てた。
フェリクス、そうだ、フェリクス。大切な人の名前だ。どうして今まで忘れていたんだろう。
突然のことに驚いたのか一瞬動きが固まったフェリクスを力いっぱい抱きしめた。
「こんな馬鹿なこと、終わりにしよう」
抱きしめた体は思ったよりも小さく、僅かに震えている。
ガシャン、と剣が地面に落ちる鈍い音がした。
「…俺だって、本当は」
フェリクスのか細い声と同時に、背中に腕が回されたのが分かる。
互いに身を寄せると、どちらとも分からない程の血と煙の匂いがした。
馬鹿馬鹿しいだろ、こんなの。国も、忠義も、守るべきものはなんだ。
「本当は、約束を守りたかった……だがディミトリに誓った!何があっても国を守り切ると!」
フェリクスの声が響く。ディミトリと言う名前を聞いて、自分が彼とどうして敵対しているのかを思い出した。そうか、俺は母国を裏切ったのか。
どうして、俺たちは違う道を選んだのだろう。
どこから、間違っていたんだろう。
今でも遠くから悲鳴や剣のぶつかり合う音が聞こえてくる。
世界に俺たち二人だけだったら良かったのに。そうすれば、何も余計なことは考えず、こうしてずっと一緒にいられるのに。
「だから、新しい約束をしてくれ」
ぎゅう、と一層強く背中に回されている腕に力が入る。
「次に逢った時は−−−」
徐々にフェリクスの声が遠のいていく。
最後に見た彼の表情は霞んでいて見えなかった。
涙なんて流すもんじゃないな。

ガバッと身を起こすと、鳴り響くアラームとカーテンの隙間から差し込む光に包まれた。
夢か。そりゃそうだ。前髪をかき上げると、額は汗でびっしょりと濡れていた。
夢で見たあの景色や青年は、一体なんだったのか。
彼の名前を呼んだ気がする。なんて言う名前だったか。
何か大切な約束をした気がする。思い出せない。
壮絶な夢を見た気がするが、記憶が曖昧ではっきりと思い出せない。
いくら考えても夢の話だ。思い出せないものは仕方がない。そう割り切って、俺は身支度を始めた。
顔を洗い外へ出れば、またいつもの日々が待っているのだから。

意外にも、大学へ行っても友人や知り合いの女の子達に何も聞かれなかった。
ああ、案外あまり噂話など気にする連中は少ないのかもしれない。有難い展開だ。
本日の講義も終わり、憂鬱の種も無くなったので晴れ晴れとした気持ちで帰ろうとしていたところ、何度か一緒に講義を受けていた女の子に声をかけられた。
「ねえ、このあと用事ある?」
嫌な予感がした。昨日の今日で女性関係の悩みを抱えたくない。
でも断る理由もない。それに何も面倒に巻き込まれると決まったわけじゃない。
「もちろん、暇だよ」
俺って本当に馬鹿だな。数十分後には、暇だと笑顔で答えた自分を殴りたくなるのだから。

「あの子と別れたんでしょ?」
ブフ、と口にしかけていたコーヒーを吐き出しそうになった。
噂になってるよ、とテーブル席の対面に座っている彼女が微笑む。
あの後、暇だと言ってしまった俺は声をかけてきた女の子と大学から少し歩いた先にあるカフェに入った。
少しお喋りして、それで解散。その流れに持って行きたかったのに、まさか開始早々その話題に触れられるとは誤算だった。
彼女は自分が注文したアイスカフェラテのストローをくるくるとかき回しながら、じっとこちらの出方を伺っている。
まるで捕食される前の獲物になった気分だ。女とは、それはそれは恐ろしい生き物だ。
「はは、いきなりそれかー…」
笑顔でごまかせないかと思ったが、少し真剣な声色で「ごまかさないで」と言い放たれる。
「わたし、入学してからずっとシルヴァン君のことが好きだったの」
そうだったのか、ごめん、気付いてたけど気付いていないふりをしてた。
「なのに、あの子なんかと付き合っちゃうから」
彼女とは知り合いだったのだろうか。
「でも、別れたって聞いて嬉しくって」
どこでその話を聞いたのやら。情報社会の恐ろしいことよ。
「今度こそ私だって思ったの。だって、本当にシルヴァン君を好きなのは私だもの」
好きに本当も嘘もあるもんか。
「ねぇ、だから私と付き合ってよ」
ここでイエスと答えれば、待っているのはきっと地獄だ。
ただ、ノーと答えるだけの材料を俺は持っていない。下手に断って、今度は何をされるのかを考えると恐ろしくてたまらなかった。
お互いよく知りもしないのに、どうしてここまで俺に固執するのか。
俺をアクセサリーとして横に置きたがる女の子は腐るほど見てきた。申し訳ないが、この子も自覚がないだけできっとそうなんだろう。
あんたが好きなのは俺じゃない、俺を隣に置いた自分自身だ。そう言えたら、どんなに良いか。
カップを握る手に汗がにじむ。ただこの告白を断れば良いだけなのに、何故それが出来ないのだろう。
「俺は–––」
「ここにいたのか」
突然通路側から声をかけられ、声の主を見て驚いた。
そこにいたのは、昨日河川敷で出会った不機嫌そうな少年だった。
「探したんだぞ。約束の時間はとうに過ぎてる。早く準備しろ」
テーブルの伝票と俺の腕を無理やり掴むと、少年は店の外へ向かおうとする。
「ちょ、ちょっと!あなた誰なの!?」
彼女が慌てて立ち上がり、俺と少年を交互に見て声を荒げる。
「お前こそ誰だ。悪いが、こっちが先約だ」
「なっ…」
「安心しろ。代金なら払ってやる」
俺は何も言えないまま、スマートに俺たち二人分の支払いを済ませ店の外へ出ていく少年の後ろ姿を茫然と見ていた。
それから我に帰り彼の後を追おうとして、店を出る直前に置いて来てしまった彼女の方を振り返ると、ただ唖然とした様子でこちらを見て突っ立っていた。
「また明日」とは、とても言える様子ではなかった。

ズンズンと先に行ってしまう少年の後を追うが、あちらの足が早くてなかなか追いつけない。
「ちょっと…待てって…」
突然のことで混乱しているからか、足がもつれそうになってしまい上手く歩けない。
自分が情けないと思いつつも、あの場から救ってくれた少年にお礼を言わず帰るなんて出来なかった。
先ほどのカフェからある程度離れた大通りまで来たあたりで、やっと少年が足を止めてこちらを振り返った。
「遅い」
最初に言うのがそれか。俺はおかしくて、つい声を出して笑ってしまった。
「? 何がおかしい」
不思議そうに俺を見上げる少年の表情は、昨日の不機嫌そうなものとは違っていて年相応のそれだった。
「いやだって、あんなドラマチックな展開って……あーやばい、しばらく笑えるなこれ」
彼は気まずいのか、俯いてしまった。
それに気がついて、俺は彼の頭をくしゃりと撫でた。
「悪い、助けてくれたのにな。そういえば、なんで助けてくれたんだ?あと名前は?」
「いっぺんに聞くな」
頭を撫でる手を軽く払われる。
「はは、そうだな…」
道の真ん中で立ちっぱなしてずっと笑っている俺は、さぞ奇妙に見えただろう。
大通りは人や車が多く、そんな雑踏の中で俺とこの少年の時だけ止まっているみたいだった。
少し夢みたいなこの空間から離れるのはもったいない気もしたが、今度は俺が少年の腕を引いた。
「なぁ少年、この後お茶でもどうです?」

*****

「誰もいないし、好きに寛いで良いからなー」
あの後俺は、少年をそう遠くない場所にある自分の部屋に招いた。
どこか店に入っても良かったが知り合いに見つかると面倒だったので、それならば自分の部屋の方が都合が良かったからだ。
マンションのホールでエレベーターを待つ間、お互い黙ったままだった。でも、まるで昔からこうだったとでも思ってしまいそうなほど、不思議と気まずさはなかった。
部屋の入り口で、少年は綺麗に靴を揃えていた。身なりからどことなく育ちの良さは感じていたが、自分の予想は当たっていたようだ。
部屋に上がった少年はリビングの端っこで突っ立って手持ち無沙汰にしており、その様子が少し意外で自然と笑みが溢れる。
「そんな遠慮しないで、ソファ座って良いから。あ、あと名前教えて」
「………、フェリクス」
「……そっか」
フェリクス、フェリクス。不思議と、その名前を何度も心の中で呼びたくなった。
お兄ちゃんって呼んでも良いからなとからかうと、フェリクスは怒ると思ったが神妙な表情のままソファに座った。
自分の名前は訊かれなかったが、キッチンに向かいながら「シルヴァン」と自分の名前を教えた。フェリクスは黙ったままだった。
ほぼ何も入っていないと思われる冷蔵庫を恐る恐る開ける。最後に買い出しに行ったのはいつだったか。何か客人に出せる代物は残っているか怪しい。が、その心配も杞憂に終わる。良かった、運良く未開封のアイスコーヒーが入っていた。
あとは適当に買い溜めていた菓子類をソファの側に置かれているローテーブルに並べて、彼をもてなす準備が完了した。
「こんなものしか無くて悪いけど」
「いや…、構わない」
彼の横に腰掛けると、どっと肩の力が抜けた。
こんなに気を遣わなくてもいいと言うフェリクスに、俺はまぁまぁと誤魔化しながら菓子の袋を開ける。
「さっきは本当に助かった、ありがとなー」
再び感謝を伝え、自分の分のアイスコーヒーの入ったグラスを勢いよく仰いだ。
「助かった…んだけど、何で助けてくれたんだ?」
一度しか会ったことない(しかも格好悪いところを見られた)男を助ける理由なんて、そうそうないはずだ。
この気難しそうな男が理由を話してくれるかは疑問だったが、案外あっさりと教えてくれた。
「昔、お前と似たような男がいて、他人事にように思えたなかっただけだ」
「俺と似た男、かぁ…」
どんな人間か全く想像がつかなかったが、フェリクスが助けたいと思うほどと言うことは、きっとそ彼にとって大切な存在だったのだろうと思えた。
「俺に似た男か、ちょっと興味あるなー」
「案外、すぐ会えるかもな」
それどう言うことかと聞く前に、フェリクスは先ほど用意したアイスコーヒーの入ったグラスを手に取り、一口飲んでため息をついた。
「いつも、ああなのか?」
少し躊躇いがちな声に、思わず苦笑する。
「何が?」
「…女関係のトラブルだ」
ああ、そう言えば彼に女性と揉めているところを見られてばかりだ。そう思われてしまっても不思議ではない。
実際に女関係のトラブルが多いことは事実だ。恥ずかしさと気まずさに頭を掻く。何かうまい言い訳はないものか。
「…いつもってわけじゃ無いんだけどなー。なんでだろうな、最近こういうことが多くってさ」
嫌になるよなー、と笑って見せたが、フェリクスは疑心とも軽蔑とも取れる表情で眉間にシワを寄せていた。
「まあ、可愛い子に言い寄られて悪い気はしないっつーか…俺も女の子は好きだし」
きっと、俺の顔は引きつっていなかった、と思う。いつものペラペラの笑顔を貼り付け、愛想の良い声色で隣で怪訝そうな表情を貼り付けた少年を上手く誤魔化せているだろう。
嘘をつくのは慣れていた。それに、こう言っておけば皆、大抵は納得してくれるんだ。
だがフェリクスは、じっとこちらを見たまま、ゆっくりと口を開いた。
「お前、本当は−−−」

フェリクスをマンションの前まで送った後、部屋に戻って先程まで彼と並んで座っていたソファにうつ伏せに倒れ込んだ。
散々な1日だった。よく知りもしない女に突然言い寄られ、かと思えば一度しか会ったことのない年下の男に助けられ、そして終いには。
(本当は女が嫌いなんだろう、なんて)
そう言い放ったフェリクスの顔がどこか寂しそうだったのは何故なのか。
動揺した俺は、適当な言い訳を並べて彼を家から追い出してしまった。
自分から呼んだ手前雑な扱いもできないので外まで見送りに出たが、もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。
俺は最後まで、彼の前で道化を演じることができていたのか。
彼と会ったのは二度目のはずで、俺のことなんか何も知らないはずなのに。どうして、ずっと隠していたことを簡単に見抜いてしまうんだ。
ごろりと寝返りを打ち、白い天井を眺める。ぼや、と視界がぼやける中で、あの時のフェリクスの顔が頭から離れない。
何か…、何か大切なことを忘れてしまっている気がする。
ゆっくりと遠のいていく意識の中で、視界に広がる白い天井が次第に赤くなっていったのを覚えている。

✳︎

「またサボっているのか」
ピシャリと言い放つその声に、はっと目覚める。
これが目が覚めたと表現して良いものかわからないが、少なくとも今の俺にはそう思えた。
寝転がっている俺を見下ろし目の前で腰に手を当て佇む少年は、格好は違えど間違いなく先ほどまで一緒にいたフェリクスだった。
俺はと言うと、大きな木の根本に座り、彼に起こされるまで居眠りをしていたらしい。
フェリクスは先ほど家にいた時の格好とは違い、どこかの制服のような装いだった。
この不思議な感覚からして、きっとここは夢の中だと気がつくまで時間はかからなかった。
見ると、自分も彼と同じような格好をしていた。俺たちは、夢の中では同じ学校の学生なのだろうか。
ぼやぼやとする視界を不思議に思い目を擦ると、目の前には不機嫌そうなフェリクスと、その後ろには青い空と草原が広がっている。
天気がよく日差しが強いが、背後の大木のおかげて木陰は快適だった。確かに、こんなところにいれば居眠りもしたくなるだろう。
「いい加減、真面目に訓練したらどうだ?」
呆れたように言い放つフェリクスだったが、彼は俺の横に腰を下ろした。
訓練?何の話だ?と一瞬混乱するが、すぐに“夢の中の俺”の記憶が頭の中を巡る。
この世界の俺はフェリクスと同じ学校の生徒で、戦闘訓練をよくサボってはフェリクスに小言を言われていた。
時代背景や場所はサッパリだが、何となくここでの自分と背景が分かってきた。
そして俺は、確か知り合いの女の子に言い寄られて、面倒になって、ここに逃げてきたんだ。
「ははは…頑張りまーす」
なんとなく隣のフェリクスと顔を合わせづらくて、空を仰いだ。
天気が良い、というだけでは無いほど空が綺麗だった。現実の自分が見ている空とは随分と違う気がする。
しばらく空を見上げてぼーっとしていたが、隣に座るフェリクスがじっとこちらを見ていることに気がついた。
「…猪、が」
「…殿下が、何?」
猪とは、何故急に動物の話なのかと思ったが、すぐにそれは人間のことを指していると気がついた。
彼が猪と呼ぶ人間はディミトリ、俺が殿下と呼んだ男だ。ディミトリ、ディミトリと頭の中で繰り返す。どこかで聞いたことのある名前だ。
それぐらいしか記憶がないのに、俺の口は自然と殿下と呼んでいた。
「あいつが、お前を心配していた」
「心配?」
何の心配だろう、訓練をサボりがちなことか?
ふむ、と考えるように顎に手を添える。フェリクスは何かを言いにくそうにしていた。
「…シルヴァン、お前も気がついているんだろう?」
何に、と問う前にフェリクスの表情がどこか悲しげなことに気が付き、声が出なかった。
俺は何か大事なことを忘れていて、それをきっとフェリクスは分かっていて、何かを俺に伝えたいのだ。
そう直感がいうが、それが何なのかは分からない。
「あいつが心配しているのは今のお前じゃない」
「今の俺って…」
そこで俺は、ディミトリという男に会ったことがあることを思い出した。
そうだ、あの河川敷でフェリクスと一緒にいた。あの時彼は自分のことを心配している様子だった…と気がついたところで、現実と夢の話が混在していることに違和感を覚えた。
もしかして、フェリクスは–––。
己を確信させる為に、気になったことを訊いてみる。
「フェリクス、さっきは急に追い出して悪かった」
恐る恐るフェリクスの表情を確認すると、彼はやはり驚いた様子で、どうして、と言いたそうだった。
フェリクスが「案外早く会える」と言っていた男は、きっと。
「お前の言ったことが正解だよ、俺は」
自分とお前に、嘘をついている。
そう伝えたかったのに、遠のく意識の中で、言葉の続きが最後まで紡がれることは無かった。