その日は暖かく雲も少ない良い天気だった。
池に向かって釣り糸を垂らし、群がってくる魚たちをじっと見つめる。
つん、と1匹が針に食いかかったにも関わらず、その1匹とまわりの仲間たちは一斉に池の底へと隠れてしまった。
理由は分かっている。背後からの隠す気を一切感じない気配が彼らを逃がしてしまった。
そんな気配に対し、「手合わせなら今日はやらない」と一瞥した。
するとすぐに「何故だ」と返事が返ってくる。その声色は怒りを含んでいるわけでもないが、決して穏やかでもなかった。
去っていく魚たちを見送り、振り返る。いかにも不機嫌そうな表情を張り付けた担当学級の生徒が、そこにいた。
「そんな目で見てもだめだ、フェリクス」
チッ、と小さく舌打ちした彼は踵を返そうとしたが、その腕をつかんで引き留めた。
フェリクスは掴まれた手を振り払おうとするが、逃げられないように手に力を込める。
「手合わせならいつでも相手をするが、私情の持ち込みは禁止だ」
「何が言いたい」
もう逃げる気はないのか、振り払おうとする腕からすっと力が抜けた。
少し不安そうな瞳に、まっすぐ見つめられる。
「喧嘩をしたなら、素直に謝ればいい」
「何の話だ」
「生憎教師だから分かってしまう」
シルヴァンと喧嘩をしたのだろう?
そう言えば、途端にフェリクスの表情は不安から驚きに変わった。
長いこと彼の担任をやってきて分かってきたが、彼は意外にも表情が読み取りやすい。
はじめは感情が乏しい印象を受けるが、今では目の色だけで喜怒哀楽が分かるほどになっていた。
「根拠は」
「顔を見れば分かる」
ふざけるなとでも言いたそうにしているフェリクスから、手を放してやる。
彼は逃げることはしなかったが、一歩後ずさるとこちらから視線を外し、ぽつりと呟いた。
「喧嘩なんて、ものじゃない」
いつもより弱々しい声色に、今度はこちらが少し不安になる。
「俺が、一方的にあいつに言ってしまったんだ」
「なんて言ったんだ?」
「色情魔、と」
それは酷いな、と言いそうになってギリギリで口を噤んだ。フェリクスは自分の発言に深く反省をし、また動揺もしている。そんな彼を茶化せなかった。
言葉でどうにかなるものではないのなら、行動で示さねばならない。すっかり手持無沙汰な彼の手に、自分の持っていた釣竿を握らせた。
「なんのつもりだ」
「釣りは、いいものだから」
釣りをしていると、すべての感覚が竿から針へと注がれる。
魚の行動を上から観察し、肌で気配を感じ、食らいつかれる頃には竿と自信が一体化している。
「何も考えたくないんだろ?」
そう言って、釣竿を握る彼の手に、自分の手を重ねた。
今は何も考えなくていい。流れに身を任せ、自分が次にとるべき行動が分かった時に動けば良い。
それが伝われば良いと思った。
想いは通じたのか、フェリクスはこちらから離れると、池に向かって釣竿を振った。
「しばらく、付き合ってやる」
「素直じゃないな」
「だからここに来たんだ」
それもそうか、と釣りをはじめたフェリクスの隣で、互いに魚たちを観察した。
それから数日たった頃、こちらから見てもどことなく距離を感じたフェリクスとシルヴァンであったが、今ではいつもの調子に戻っているようだった。
訓練場や食堂でも一緒にいるところを見かけることが多くなっていたので、問題は解決したと安堵していた。
そして偶然中庭を通りががった時、丁度陰になる辺りでフェリクスに身を寄せ耳打ちをしているシルヴァンを見かけた。
二人の表情は見えないが、タイミングの悪いときに来てしまったのは分かる。
だが、そこからわざわざ遠回りをするのも癪だったので、そのまま気配を消して通り過ぎてしまおうとしたところ、シルヴァンがこちらに気が付き目が合ってしまった。
しまったと一瞬思ったが、それも杞憂だったと思う。
シルヴァンと目が合った瞬間、彼がニッと笑っていたからだ。
ああ、見せつけられてるな。でも仲が良いのは喜ばしいことだ。
彼らの関係が良好なのは自分の功績だと思うと、少し胸が躍った。